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 晴輝が見つかってから改めて連絡を入れてみたが、一つも返事は返ってこなかった。画面には既読の文字すら付いていない一方的なメッセージが募っていくばかり。スマートフォンを触れない状態なのか、気がついていながらも返事をしないようにしているのか、俺にはそれすらも判断出来ない。  既読が付かないまま無情にも数日が経過したその日は音楽雑誌の取材が入っていた。  自分の撮影を一通り終えた俺はトイレに行くためにスタジオを離れ、床も壁も天井も全てが白で包まれた廊下を歩いていた。するとどこからか内緒話でもするような押し殺した声が聞こえて来たのだ。  聞き覚えがある。柚葉の声だ。 「うん……そうなんだ、明日また行ってもいい? ……え? お見舞いだってば! もう……じゃあ、明日ね、――晴輝くん」  その言葉を聞いた瞬間、肋骨を折らんばかりに心臓が大きく飛び跳ね、黒々とした負の感情たちが一斉に胸裏から溢れ出した。  聞き違う筈がない。今彼女ははっきりと、晴輝の名前を呼んだ。  何故柚葉が晴輝と電話しているんだ。よりにもよってお見舞いだと? 明日、しかも明日と言った。面会謝絶とは一体なんだったのか。あの日一人だけ呼び出されて柚葉は一体何を聞いたのか。  俺達は何も知らさていないのに、柚葉は何くわぬ顔で逢瀬を楽しんでいたのだ。  裏切られた。漠然とした憤りがこんこんと込み上げる。 「柚葉、今の電話の相手だれ?」 「――っぁ……駿佑」  俺は彼女を問い詰めるために声をかけた。大袈裟なほど肩を揺らして柚葉は振り返る。  周りに鈍感だと言われる俺ですら察することが容易なほど動揺を隠せていない柚葉を前にして、一歩詰め寄る。 「なぁ、どういうこと?」  一歩。 「なんで柚葉は会えるのに俺は会えへんの?」  一歩。 「答えて」  目と鼻の先には壁に背を預けた柚葉がいた。成人男性の平均身長しかない自分だがこうして並んでみると男女の差は歴然で、頭一つ分下にある彼女の口元には怯えが刻まれていた。 「まって、駿佑……顔、怖いよ?」 「晴輝に会わせてや」  その言葉は本心に違いなかった。しかしその瞬間に限っては晴輝に会いたいという純粋な思いよりも、柚葉が会えるのに何故自分は会うことが出来ないのか、俺と彼女の違いは一体何なのかという疑問が生み出した暗雲のような感情が胸中を占めていた気がする。  晴輝は俺の憧れだった。  知識と経験を音楽として昇華し、永遠の存在として刻む俺の標。  どんな時でも明るく誰にでも優しい晴輝は中卒の俺とは違い博識で、グループの作曲全般を任されていた。そんな彼に憧れと尊敬を抱いたのは真っ当な感情だろう。  二歳下の俺を弟のように可愛がってくれた彼を、俺も兄のように慕っていた。  幸いなことに俺と柚葉は同じグループに所属しているためオフが被ることが多い。柚葉がお見舞いに行く予定だった時間が運良く空いていたため、彼女に無理を言って同行させて貰えることになった。  着用していた帽子とマスクを脱いだ俺は自分の名前を伝え、病院とは思えない程荘厳な門を抜ける。所謂セレブ病院という奴だ。芸能人や政治家、財界人が入院する特別な場所。  俺自身足を踏み入れるのが初めてであるため、手に汗を握るような緊張が全身を飽和する。綺麗に梱包された見舞いの花束を潰さない程度に力を入れた。  晴輝と最後に会ったのは二週間程前だったろうか。たったそれだけの期間なのに、まるで数年顔を合わせていない旧友に会いに行くような感覚に陥る。喉奥につっかえるような違和感は、豪壮な病院に圧倒されたことだけが理由ではないだろう。  十年来の付き合いである俺たちに面会謝絶なんて虚偽の報告をしていたわけだ。なにか特別な、それでいて他聞を憚るような事情を抱えているのに違いない。  そして、俺は今からその領域に足を踏み入れようとしている。  妙な切迫感のせいで約束時刻より数十分早く病院に着いてしまった俺は当てもなく院内を徘徊する。頭の中は開口一番に何を伝えるか、そればかりが占めていた。  おはよう晴輝! 無難だ。普段通りで良いかもしれない。  心配したんだぞ! ……これは何か違う気がする。  解を探し求めていた俺は眼前に現れた壁に気がつき足を止める。どうやら自分でも気付かぬうちに病院の奥まで来ていたようだ。部屋の前には見覚えのある名前が書かれた名札プレート。意図せず彼の病室を突き止めてしまった。  どうしたものかと逡巡しているとポケットに押し込んでいたスマートフォンが震えた。柚葉からだ。前の予定が押して十分程遅れるという内容が画面には記されている。  柚葉は俺が病室の場所を知らないと思っているのだろう。しかし俺は見事晴輝の部屋を見つけ出してしまったのだ。先程まで全身を包んでいた緊張はどこへやら、得意げな面持ちとなり扉に手をかける。  ピロン、もう一度鳴った柚葉からの着信。しかしそれに気がつくことは出来なかった。  このときの浅はかで軽率な行動を、俺はすぐに後悔することになる。  部屋を見つけ出したと浮かれずに大人しく緊張を留めていれば良かったのだ。否、院内を歩き回っていなければ良かったのだ。  せめて柚葉からのメッセージに気がついていれば。 『絶対に一人で会いに行こうとしないで』  晴輝がどんな状況なのか、少し考えれば分かることなのに。

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