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屋上で話を終えた俺と柚葉は互いの腫れた目をからかいながら解散した。
柚葉は男の俺とは異なり涙で崩れた自分の顔を見て、サイアク等と文句を言いながら化粧を直していた。掌で拭うだけで済んでしまう俺は彼女を横目に、女の子は大変だなと改めて思ったのだ。
帰宅と共にただいまと告げるのは実家暮らし時代からの習慣だ。今はおかえりを言ってくれる人はおらず、虚しくも声は廊下に吸い込まれていく。
一人で暮らしてる今、返事などないと分かっているのに口をついて出てしまう言葉だった。
靴を脱いで定位置となっている小物入れに鍵を置く。タイル張りの玄関を淡い照明が照らしていた。
リビングに辿り着いた俺はポケットに入れてあったスマートフォンを机の上に置き、身体をソファへ沈ませた。
はぁ、と漏れた深い深い溜息。ここが住み慣れた自分の部屋であると認識した途端、身体を襲うとてつもない疲労感。
病院での出来事は心身が二十四時間で許容出来る範疇を超えていた。頭の整理が追いついていない。
柚葉は女で、だから晴輝に会うことが出来た。でも女の自分では晴輝を救い出すことは出来ないと言っていた。
だから男である俺に手助けをしてほしい、と。
「って、言われてもなぁ……」
病室で見た晴輝の悲惨な現状が脳裏に浮かぶ。助けたいという想いは勿論ある。俺に出来ることがあるのなら何だってしたい。
しかし、一度あれほど怖がらせてしまった自分にそんなことが果たして出来るのだろうか。
陰鬱な雰囲気を充満させたリビングに場違いなほど軽快な機械音が響く。薄灰色の空気を切り裂く黄色い音はメッセージアプリの通知音だ。
仕事の連絡なら早く返事をしなければ、と自分を奮い立たせるも身体は少しも動かなかった。
億劫だ。スマホに手を伸ばす程度の力すら出ず、ぼぅと天井を仰ぎ見る。
もし俺が女だったなら、柚葉のように晴輝の涙を拭うことが出来たのだろうか。
少し前なら容易に触れられた晴輝が遠い存在に思えた。彼は変わってしまったのだ。
ピロン、急かすようにもう一度通知が鳴る。ああ、もう! と声を荒らげ、鬱憤に任せてスマートフォンを卓上から持ち上げた。
今日は誰とも連絡を取りたくない。ただ頭を落ち着かせてゆっくり風呂に入り、ふかふかの布団に包まれて眠りにつきたい気分だ。
しかしその理想像はメッセージの送り主を見て一変する。否、驚愕のあまりそんな望みなど風に吹かれた霧のように消え去ってしてしまったのだ。
『さっきはごめん。びっくりしたよな』
差出人が記される場所には、紛れもなく晴輝の名が書かれていた。
俺がこの数日間どれだけ連絡をしても平然と無視を決め込んでいた男は、何事も無かったように返事を寄越して来たのだ。
誰に見られている訳でもないのに、独りでに持ち上がる口角を抑えることが出来なかった。俺が一体どれ程この返事を待ち望んでいたか。一時はもう永遠に来ないなんて思っていた。
『俺のほうこそごめん。体調大丈夫?』
『今は大丈夫』
恐らく今、晴輝とこうやって連絡を取れる人間は限られている。家族と、マネージャーと、柚葉と……予想出来る限りほんの僅かな者しかいない。他のメンバーには申し訳ないが、メッセージアプリとは言え晴輝と会話が出来ることに優越感を覚えた。
事実、返事が来るまでの数秒間すら待ち遠しく、液晶画面に穴が空くほどの熱視線を向けてしまう。
伝えたいことも聞きたいことも山ほどあるはずなのに、文字になって出てこない感情たちは親指を震わせるだけに成り下がった。言葉になり損ねた文字を打ち込んではデリートキーを押す。
そうしている間にトーク画面に浮上したのは晴輝からのメッセージ。文字を見た瞬間、単純な構造をしている俺の心臓はドクリと脈打った。
『俺の事、柚葉から聞いた?』
屋上で柚葉から聞いた話が、柚葉の涙と下手くそな笑顔が脳裏に浮かぶ。
晴輝の言う俺のこととは、無論柚葉から聞いたあのことだろう。
聞いた、と事実だけを伝えた短い文章を送ると直ぐに記される既読の文字。それを見た直後、晴輝くんは駿佑にも知られたくなかったと思うという柚葉の言葉を思い出す。
また脊髄反射のように返事してしまった。もっと気を使った内容を送るべきだったと後悔したが後の祭りだ。
この状況で、本当はお前に知られたくなかったなんて本音を言えるはずがない。ただでさえ優しい性格の晴輝に気を遣わせてしまう。
どうするべきかとお世辞にも出来が良いとは言えない頭を必死に回転させて画面と睨めっこをしていると、そんな考えなんて露知らぬ晴輝から返事が返って来た。
「だよな、駿佑には知られたくなかったわ」
語尾に付けられた笑顔の絵文字が、霞んだ視界の中で浮かび上がって見えた。
嗚呼、そうだった。そういう奴だった。何も変わってない。俺が勝手に変わってしまったと思っていただけなんだ。
そりゃあ、表面上は変わってしまったかもしれない。けれど本質は変わっていない。病室で見た晴輝も、今電子機器越しに会話をしている晴輝も、数年前から知ってる晴輝に違いないのだ。
ごめんと真面目に送ると、謝んなよ、嘘だって! と溌剌とした言葉が返ってくる。
病室での殺伐としたやり取りが嘘のように心音は穏やかだ。
今画面の向こうにいる晴輝はどのような顔をしているのだろうか。以前のように笑ってくれているのだろうか。それとも一人ベッドに蹲って苦しんでいるのだろうか。
前者であってくれと願った。否、笑顔でないのなら、俺が笑顔にしたいと思った。
それは嘘偽りのない本心で、晴輝を傷付けてしまった俺が出来る唯一の罪滅ぼしとも言えた。
晴輝はどんな時でも笑顔だった。
メンバー内で揉めた時も、事務所に理不尽なことを言われた時も、先輩に嫌味を言われた時も、常に笑顔を絶やさなかった。苛立ちや傷心を俺達には見せず、笑顔がトレードマークだと言っても過言では無い、そんな男だったのだ。
晴輝には笑顔が一番似合うから、なんて小っ恥ずかしい本音はを隠し、俺に出来る事はないかと想いを要約した内容だけ伝えた。
返事が来たのは数分後だった。先程まで間を空けず続いていたやり取りの中に生まれた静寂は、晴輝の逡巡を意味していた。
『じゃあこれからも、俺とこうやって連絡取って欲しい』
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