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使用感の無いキッチンに響くのはスピーカー設定にしたスマートフォンから聞こえる声。まな板の上に林檎を転がし、今日も俺は姿の見えない彼と雑談をする。
あまり料理をしないため台所に立つことはほとんど無が、唯一スムージーを作る時のみ包丁を握る。
果物は良い。スナック菓子と違って身体に有害な成分は入っていないし、甘いし美味しい。持ち上げた林檎に包丁を宛てがう。
俺と晴輝は毎日のように電話をした。日に日に通話時間は長くなり、今では作業をしながら話すのが習慣化している。お互い緊張していた数日前が嘘のように冗談を交わし合えるようになっていた。
初対面の人と一から友情を築き上げていくような、そんな感覚だった。
初めは確かに優越感があったが、晴輝に何があって一体どういう状況なのか全く知らされてないメンバーがいる中、こうして会話を楽しんでいることに今では後ろめたさを覚える。皆が心配しているのに真実を伝えられず嘘をつくのは心苦しい。
柚葉は俺よりも長い間この気持ちを抱えていたんだな、と漠然と想像した。彼女には悪いことをしてしまった。
『それでさぁ……って、駿佑聞いてる?』
「ん、あぁ、聞いとる聞いとる。看護師が美人で嬉しいって話やろ?」
『全然違う! 俺の事なんだと思ってんだよ!』
電話越しに怒る晴輝の姿を想像し、笑い声を上げた俺は話しを続けながらもスルスルと林檎を回していく。
綺麗に螺旋状を画いているその赤い皮の河を眺めながら、上手くなったもんだなと自分を褒めた。
いつもは俺がその日あった出来事を報告したり一方的に愚痴を言ったりしていたが、外に出られない晴輝はそんな話も楽しそうに聞いてくれていた。
だからこうして晴輝が何かを話そうとしてるのは珍しい。しかし前触れも無くその声が萎んだ。
『あのさ、駿佑……』
俺は知っている。申し訳なさそうな話し方と饒舌な晴輝が言葉を詰まらせる理由を。
電話を掛けてくる時も、また電話をしていいか確認する時も、俺の迷惑になると思っているのか毎回この声色を見せる。何も心配することは無いのに。
言葉になり損ねた柔らかい唸り声が電話越しに聞こえた。明日も電話していいかという類の確認だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
ふとまな板を見ると先程まで綺麗な螺旋を画いていたそれはブツブツと短く切られ、ただの切れ端と化していた。
始めて晴輝から電話が掛かってきた日のことを思い出す。
「駿佑が忙しいのはわかってるんだけど、もし! もし良かったらでいいから……」
その後に続く言葉を勝手に想像して、包丁片手に赤かったその果実をまな板の上に置く。
ごくりと喉仏が上下した。
「…………会いに、来てほしい」
カラン、と金属音を鳴らしながら右手から包丁が落ちていく。胸中で渦巻く温かいものを逃がすまいと空気を吸い込んだ。
「ええで!」
キッチンに自分の声がこだました。随分と大きい声が出てしまい咄嗟に口元を手で抑える。
晴輝も同様に口元を抑えているのだろう、フフッと控えめな笑い声がスマートフォンを通して俺の鼓膜を揺らした。緊張して損したと彼は晴れやかな声を上げたが、その言葉を聞いた俺は病院で再開した日のことを思い出す。
『俺はええけど、晴輝は大丈夫なん?』
『……うん、多分大丈夫』
意味深に空いた間と多分という言葉が脳裏に引っかかった。恐らく俺と再会して以来男性には会っていないのだろう。
もしまた晴輝を傷付けてしまうことがあったら、本当にもう会えなくなってしまうような気がした。
『駿佑だから、大丈夫!』
そんな俺の胸中を察したのか、晴輝は明るくそういった。
白くなった林檎に包丁を当てる。嬉しいと素直に思った。
ザクリと音を立てて林檎が真っ二つに割れた。次は無いとも思った。
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