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 逢瀬が決まってからの数日は普段より早く時が進んだように思えた。今までの人生と何ら変わらぬ二十四時間が、瞬く間に過ぎ去ったのだ。  ついにこの日が来た。  病室の前に立つと看護師さんが不安げな視線をこちらに向けていることに気がつく。この部屋に男が訪れるのがそれほど珍しいことなのだと改めて痛感した。  現に俺には前科がある。警戒されて当然だ。  取手に指を掛けて一度だけ深呼吸をする。驚かせないように、自然体で。  脳内会議が開催された結果、第一声はこれに決定した。 「久しぶりやな、晴輝」 「うん。久しぶり、駿佑」 「入ってええ?」 「勿論……なぁ、ちょっと緊張してるだろ」 「それはお互い様やん」  暮れ時の陽の光が橙色のベールとなり部屋中を抱いていた。ベッドの横にある窓から注ぐ強い夕陽のせいで彼の輪郭は朧気に歪み、姿は陰影を含んでいたが、その声と仕草は晴輝そのものだった。  笑いながら被っていたハットを脱ぐ。前回来た時は内装を確認する余裕等なかったが、上着を掛けるハンガーどころか帽子を掛けるフックまで完備されていた。流石芸能病院だなと関心し、指定の場所にハットを置く。  傍から見たら楽しそうな再開。でも俺は強い違和感を覚えていた。  その正体は晴輝の大きな瞳にある。この病室に入ってから背中を向けている今も尚、チクチクと全身を指すほどの熱視線が向けられているのだ。  晴輝のいるベッドに向かう間も彼は絶対に俺から目を離すことは無かった。  まるで面接を受ける就職活動生のように置いてある椅子の横に立って訪ねる。 「座ってもええ?」 「……どうぞ」  頭頂から爪先まで舐めまわすように目線を這わせた後、晴輝は手に持っていた漫画を横に置いて俺を迎え入れた。一見客人を持てなす主人を彷彿とさせる身のこなしだが、未だその双眸はギラギラと眼光を放っている。  一挙手一投足を見逃すまいとするその真っ黒な猫目は、まるで俺を見失わないようにしているようだ。いや、そう感じるのは見当違いではないのかもしれない。  今晴輝が見ている俺は、一瞬でも眼を離すと俺じゃない何かに変わってしまうくらい脆い存在なのだ。 「会いたかったよ、駿佑」  ファンの女の子が聞いたら卒倒するような台詞をふわりと微笑みながら言われる。  そうだった。この晴輝という男はシャイだと言われている俺とは正反対で、こういう恥ずかしいことを平気で口にする奴だった。  しかし残念ながら俺は女の子じゃないし、端正な顔が生み出すキラキラスマイルを前にしてもときめいたりはしない。  普段通りにしろ、自分にそう言い聞かせて晴輝に視線を預ける。  前回病室で会った骨と皮のような外見と比較するとかなり肉付きが良くなった目の前の彼は、俺の知ってる晴輝より少し細いと感じる程度にまで回復していた。どうやら食事は取れているようだ。  ほっと胸を撫で下ろした俺の意識は布団に投げ出された彼の手に縫い付けられた。夕陽により橙色に染まった白い晴輝の手首に、白い包帯が巻かれていたからだ。  前回も巻いていただろうかと思考を遡らせていた時、視界に映っていた晴輝の手がゆるりと持ち上がった。 「気になる?」 「ッ、いや別に」 「いいよ、見せてあげる」  ねっとりとした晴輝の声が鼓膜に張り付き反響する。ドクリと心臓が重く脈打ち、反射的に顔を上げた。  先程までの不気味さすら感じる微笑みとは異なり、逆光を受けたその表情は妖艶と呼ぶに相応しかった。ステージ上で力強くドラムを叩く晴輝とは違う、別の誰かがそこにはいた。  彼はこれ程大人しい人間だっただろうか。否、俺の中では明るく溌剌とした男だと記憶されている。二人きりで膝を突き合わせるとここまで雰囲気が変わるのか、それとも監禁生活が彼の性格を変えたのか。  どちらにせよ吸い込まれるような綺麗な微笑みに雪女の伝説が重なった。  部屋を訪れてから一秒たりとも外れること無く俺を射抜いていた黒い双眸が伏せられる。目線の先にある手首から緩慢に、それでいて見せつけるように包帯が解かれていく。  俺の頭の中では警報が鳴っていた。これは見てはいけないと直感的に思った。  しかし眼を逸らせと脳が何度も命じても、それに逆らった俺の瞳孔が動くことは無い。  見えない何かに縛られているような、はたまた捕えられているような感覚。記憶の中の晴輝と異なる彼の姿に、俺の全ては支配されていた。  晴輝の腕を覆っていたものがベットに落ちる。包帯に隠されていた手首を見た瞬間、不可解に心臓が揺れた。  勘弁してくれ。晴輝が入院してから何日経ったと思っているんだ。 「ははっ、汚いよな」  汚いと言われたその手首には擦り傷とも火傷跡とも取れる凄惨な跡があった。  ぐるりと一周蛇が這ったような傷が角張った手首に刻まれている。  恐らく縛られた際に出来るものだろう。少なくとも俺が歩んできた人生の中で一度も見たことのない、形容し難い傷跡がそこにはあった。  脳内にひとつの光景が浮かぶ。  拘束から逃げ出そうと必死に暴れ、身を捩り、奮闘し、それにより手首が傷付いて血が滲み、それでも構わないと懸命に踠く晴輝の姿が―― 「腕だけじゃないよ……首は、ほとんど消えたんだけどさ」  晴輝は首元を触りながら感情のない乾いた笑い声を上げた。  窓から差し込む夕陽が作り出す逆光により表情はよく見えなかったが、恐らくまた微笑んでいるのだろう。 「汚くなんてない、晴輝は綺麗やで」  それは紛れもなく本心だった。  元々大きい眼を更に大きく見開いた晴輝が俺を見つめる。 「なんだそれ、駿佑ぽくないな」  その瞳の色すら夕陽に隠れて見えなかった。

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