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「――ってことがあったんやけど」
「…………そうか……」
昨日の出来事を晴輝に報告すると、彼はふぅと息を吐いてベッドに倒れ込んだ。毎日取り替えられているであろう清潔でふかふかな布団が僅かに浮く。
俯いた俺の顔を覗き込むように凝視してくる晴輝は、こちらの表情を伺っているようだ。
「早く俺に退院して欲しい?」
「当然やろ」
「じゃあ、リハビリ手伝ってよ」
「リハビリって、なんの?」
よいしょ、と年寄りのような声を出しながら身体を起こした晴輝の猫のような顔が間近に迫る。唇の端をにやりと持ち上げた彼の言葉の一つ一つが、俺の脳に重く反響する。
「オトコノヒトに慣れるためのリハビリ」
「……ッ、言い方!」
先程までの意味深な微笑みから一変、子供のように無邪気な笑顔でアハハと笑い声を上げた晴輝が離れていく。
良かった、俺の知ってる晴輝だ。と安堵するのと同時に、本人の手によって一つの扉が開かれてしまった。
気付かないようにしていたものが、絶対に想像しないようにしていたものが脳裏を過った瞬間だった。
柚葉は監禁されていたとしか言っていなかったが、男性恐怖症になるくらいだ。やはりそういう行為もあったのだろう。
今まで敢えて考えないようにしていたのに、まさか本人の言葉によって想起させられるとは。
「駿佑、何考えてんの?」
あ、またその顔。時たま見せる、吸い込まれそうになるような微笑み。その妖艶な表情と言葉に、抵抗するように下を向く。
貴方が男達にどうこうされてるところを想像してしまいました、なんて口が裂けても言えるわけがない。
行き場を失った指先を意味もなく動かし、少しだけ伸びた爪をカチカチと鳴らす。そろそろ切らないといけないなと現実逃避のために場違いなことを考えていると、また晴輝の顔がすぐ傍にあった。
キスされるのではないかと思ってしまう程に近くまで迫った顔に身体を強ばらせると、耳殻に生暖かい吐息がかかる。
「ヘンタイ」
吐息を含んだやけに生々しいその四文字が鼓膜に張り付き、反響する。
へんたい、ヘンタイ、変態。
数秒遅れて頬がカッと熱くなった。鏡を見ずとも自分の顔が赤くなっていることが分かる。
まさか先程脳裏を掠めた想像を悟られてしまったのか。手の甲で口元を抑えながら顔を上げると、案の定目の前の男はニヤニヤと笑っていた。
完全に遊ばれている。俺達は以前からこうだった。
頭が良いくせに子供のような悪戯心を持つ晴輝にはもう何年も玩具にされている。彼が姿を消したのは、今度こそ反撃して痛い目を見せてやろうと意気込んだ矢先だった。
ベッドの上で身体を左右にユラユラと揺らした晴輝が上機嫌に尋ねる。
「なぁ駿佑、手伝ってくれないの?」
「……ええで、好きなだけ手伝ったるわ」
元気なのは良いことだが揶揄われると腹が立つ。精一杯の反抗として睨みを利かせたが晴輝は子供を見るような柔らかい眼差しでこちらを見るばかり。
こうなったらヤケクソだ。前に何でもするって言ったような気もするし。
「じゃあ、触るぞ」
その言葉を合図にして差し出された晴輝の手が俺の肩に触れる。
真っ先に伝わったのは温もりではなかった。
小刻みに震える晴輝の白い指先からは、紛れもなく恐怖や緊張が感じ取れた。そこでやっと自分の考えが全て見当違いだったことに気がつく。
先ほどまでの無邪気な笑顔は不安を覆い隠す仮面か、はたまた以前の自分のように俺を揶揄うことで平静を装っていたのか。
薄い下唇を噛んだ晴輝は自分を落ち着かせるように息を吸い込み、震えた唇で体内の空気をゆっくりと吐いていく。その間もつり目がちな黒い瞳は休むことなく揺れていた。
もしかすると、否確実に、あの事件以来男に触れていなかったのだろう。ライブ開演前の舞台袖でも、これほど緊張した晴輝の姿は見たことがなかった。
こんなに震えて……。きっとまだ男が怖いんだ。
そう思った途端、目の前で身体を強ばらせるこの男が急に愛おしく思えた。
加護欲と少しの独占欲が頭を擡げる。
肩にあった晴輝の手が形を確かめるように鎖骨へと向かっていく。視線のみを上げて様子を伺うと、唇を震わせながらとキュッと目を瞑っている晴輝の姿があった。
心臓が跳ねる。
そんな顔、反則じゃないか。さっきみたいに余裕そうに笑ってくれ、なんて俺の願いが晴輝に伝わることは無い。
こちらの気なんて知らずに肩に触れていた手が胸へ降りていく。
このまま進んだらやけに煩いこの心音に気付かれてしまうと焦り、晴輝の指から逃げるように身体を離した。
驚いた晴輝が顔を上げたことにより視線が交わる。
「あ、ちが……ごめん」
「嫌だった?」
「……嫌やないけど」
「…………なら駿佑、手出して?」
言われるがままに手を差し出すと晴輝も同様に手を伸ばした。陽に焼けた俺の人差し指と真っ白な晴輝の人差し指が触れ合う。
その白が俺の皮膚を這うように動き、中指、薬指、第一関節と触れ合う面積が増えていく。親指以外の四本のの指が触れ合った時、晴輝の少しだけ高い体温が伝わった。
更に小指球と母指球が重なり合い、最後に存在を確かめるように親指が重なる。
心臓が煩い。触れ合う掌さえも鼓動を刻んでいるようだ。
何年もの付き合いで飽きるほど見てきたはずなのに、改めて晴輝の顔を眺めながら綺麗だなと感想を抱く自分がいる。
ずっと切っていないのだろう、伸びきった前髪がアーモンド型の眼にかかっていた。その黒い瞳を覆い隠すように瞼は伏せられ、ふるふると揺れている睫毛は白い頬に翅のような影を落とす。
男らしく薄い唇が僅かに開き、真っ赤な舌がチラリと覗き見えた。
伏せられていた目睫が上がり、視線が絡む。また一度、大きく心臓が跳ねた。
うっすらと涙の膜が張ってある瞳は宝石のように煌めいていて、悔しいけれど綺麗だった。
顔に全身の血が集まり、頬が熱くなっていくのを感じる。また俺は赤面しているのだろうか。
「ハグとか、してみる?」
無意識のうちにそんな言葉が口から出ていた。
驚きから眼を丸めていた晴輝だったが、数秒間逡巡するような素振りを見せた後に無言で両手を広げて見せる。来いということだろう。
座っていた椅子から立ち上がり、晴輝のいるベッドに膝を掛けた。
晴輝はこちらの行動を監視するように見つめており、俺もその不安げな姿を少し高いところから見下ろしていた。
ごくりと不自然な音を立てて喉仏が上下する。嚥下音が聞こえていたらそれほど格好悪いことは無いが、気にする余裕は既に無い。
肩に置いた手を背中へ滑らせ、怖がらせないようにゆっくりと晴輝の身体を抱き寄せた。
治まれ治まれと念じても一向に落ち着かない心臓には呆れ果ててしまう。
痩せてしまったせいで俺の胸の中にすっぽりと収まった晴輝には、絶対に聞こえているだろう。
「はるき、大丈夫?」
「…………うん、大丈夫」
鳴り止まない心臓の音もリハビリも、もうどうだっていい。
だってもう落ちてしまったから。
この音に、言い訳なんてできっこない。
これはきっと底なし沼。
もしくは終わりのない落とし穴。
俺はどこまでも落ちていく。
「駿佑、ドキドキいってる」
またどくりと跳ねた。認めるしかない。
「うるさい」
その言葉はせめてもの足掻きだった。
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