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 無機質な扉に額を押し当て、体内の澱んだ空気を巡回させるように深い溜息を何度も繰り返す。  看護師さんが不審者を見るような眼でこちらを見ている気がするが、申し訳ないことに今の俺には自分を取り繕う余裕が無い。  緊張と恐怖で足が竦んだ。取っ手を掴む俺の手は絶対にそれを離そうとしないのに、掌にはじわじわと汗が滲み始めていた。  病室に辿り着いた時に頭を悩ませていたのは晴輝への接し方。その時には既に柚葉の言葉など記憶の隅に追いやられていた。  この重い扉に手を掛けるのを躊躇するのは初めての経験ではないが、これまでと今日とでは圧倒的な差異がある。  それは今も高鳴り続けるこの心臓の音だ。  大丈夫だと何度も自分に言い聞かせても加速し続ける心音を落ち着かせていると、予兆も無く額を押し当てていた扉が開かれた。  支えを無くしたことにより情けない声を出した俺は、バランスを崩して目の前にあるものを掴んだ。 「……しゅんす、け?」 「え、あ……晴輝……」  近い。目睫の間に晴輝の顔があった。鼻先同士が触れてしまいそうな距離だ。  恐らく瞬き程の出来事だったのだろう。しかし息が出来なくなるようなその時間が、俺の世界では数十秒にも引き伸ばされていた。  アーモンド型の黒い瞳は俺を吸い込むように澄んでいて、お星様を散りばめる。否、既に吸い込まれているかもしれない。  それに抗うように視線を落とすと桃に色づいた薄い唇が視界に入る。  院内のざわめきが脳から乖離し、異空間にトリップしたような不可解な浮遊感を味わった。  数センチ顔を動かすだけで触れてしまいそうな程近い晴輝との距離。  みぞおちの辺りに熱い塊が込み上げる。彼の体温と息遣いを肌に感じ、脳が沸騰したように揺れた。  今それに触れたら、どんな反応をされるだろう……。 「――久しぶり、駿佑!」 「っ、え……ぁ、 ぅあ……」  よく通る声を張り上げた晴輝に強く抱擁される。数センチとは言え俺より背が高いくせに肩に埋めた顔を子猫のように擦り付ける彼の甘えたな行動に、言葉になり損ねた声を漏らした。  先程の妄想を必死に振り払うと、顔を上げた晴輝が俺の眼をじっと見つめて言った。 「もう来てくれないのかと思った」  この世界が漫画がだったならニコリと効果音が付きそうな晴輝の笑顔を、ただただ無言で見つめる。  俺のよく知る晴輝だった。そこに居たのは以前と同じ向日葵のような笑顔を常に振りまいている晴輝だった。  しかしこれまでと全く異なり、俺の心臓は破裂してしまうのではないかと要らぬ杞憂すら真剣に抱くほど早鐘を打っていた。  カーテンの横に置かれているお見舞いの花が霞んで見えてしまう程輝いて見えたのだ。   荘厳な病室も、窓枠に切り取られた澄んだ晴天も、綿菓子のような白い雲も、晴輝を前にした途端脇役に成り下がる。 「今日もう仕事ないの?」 「ああ、うん。今日はもうオフやで」 「じゃあ、ずっと一緒にいてくれよ」  定位置になっているベッド横の椅子に腰掛けて質問に答えると、晴輝は顔中に喜色を湛えた。  それだけで跳ねてしまう心臓。  少しの興奮から胸中がゾクゾクと踊った。勘違いしてしまいそうな台詞だ。  これ程甘い言葉も口上手な晴輝にとっては特筆するべき事柄ではない。何年も共に過したからこそ特別な意味が無いことが分かってしまい、勘違いするなと自分に言い聞かせる。  この気持ちは見透かされているのではないかと不安が脳裏に掠める程、一枚上手な晴輝に腹が立った。  しかしそれ以上に、悪戯っ子のような表情を向けられる度に狼狽えてしまう自分が情けなく思えた。勝負すらしていないのに負けた気がしてしまうからた。  下唇を噛みながら高鳴ろうと奮闘する胸部を抑える。 「……駿佑?」 「うぇっ、な、何?」 「なんか今日変じゃない? 何かあった?」  眉を八の字に下げて顔を覗き込む晴輝の一挙一動にさえ大袈裟なほど反応してしまう自分。  返答を迷ったことにより晴輝の病的に白く角張った手が俺の顔に向かって伸びていることに気がつくのが半拍遅れた。強ばった身体は意志とは関係なく晴輝から距離を取る。 「あ……ごめん、晴輝」  咄嗟に口から出たその謝罪は彼の手を避けてしまったからか、あからさまに意識してしまい以前と同じ対応をするのが困難になってしまったからか……それとも、好きになってはいけないと理解していながら恋に落ちてしまったからか。自分でも判断出来なかった。  膝上で握られた拳に視線を逃して唇を結っている俺の姿を見た晴輝に、リハビリが嫌だったのかと尋ねられる。  直ぐに違うと否定すれば良かったのだが、恋に落ちた引き金がリハビリであるが故に返答が出来なかった。  俯いた俺の額に向けられていた熱視線が緩んだのが感覚的に伝わる。顔を上げたのは、今にも消え入りそうな程小さな声で晴輝がごめんと謝罪したからだ。  腿の上に掛かっている白く柔らかい布団を握り締め、事件から切っていないであろう伸びた前髪が伏せられた顔に悲愴な影を落とす。表情が窺えない。  違うそうじゃない! と声を張り上げてしまいたかったが、俺の唇は意味も無く開閉するだけで脳内に反響する本心は言葉にならない。理由を説明出来ない口下手な自分を憎んだ。  数秒の間沈黙を貫いた晴輝はぼふりとマットを弾ませてを横になった。否、倒れ込んだと言った方が感覚的には近いかもしれない。  前触れの無い行動に驚き、名前を呼んで身体を揺するが起きる様子は無い。  伏せられた瞼を縁取る長い睫毛からは起床の兆しすら見えず、その姿を前にして脳から血の気が引いていく。  またしても俺は取り返しのつかない罪を犯してしまったのかと焦ってナースコールを押そうとした時、唸り声を上げた晴輝が身を捩りながら起き上がった。 「晴輝! お前、大丈夫なん?」 「んぅう…………あっ、しゅんすけだあ!」 「……は?」  晴輝は相好を崩して俺を見つめた。その表情は何度も見てきた太陽のような笑顔に違いない。  しかしどうにも違和感があった。先程まで確かに会話していたのに、久しぶりに会ったような反応をする。  違和感の原因が何かと聞かれれば上手く答えられないが、漠然と何かが違うと思った。  掌で隠すこと無く大きな欠伸をした晴輝は傍に置いてあった枕を引き寄せる。もぞもぞと自分の落ち着く体制を模索しながら抱きしめた枕に右頬を寄せるその仕草は見慣れない。 「しゅんすけ、今日仕事ないの?」 「いや、それさっきも言ったやん」 「そうだっけ? ……そうだったかも!」 「なんか様子変や、で……」  そこまで言ってハッとする。柚葉の言葉を思い出したのだ。 『口で説明するのは難しいんだけど、たまに晴輝くんらしくなくなるって言うか……』 『晴輝くんが枕を抱きしめないようにしてね』  走馬灯のようにビビビと脳裏に過ぎった柚葉の言葉を数日越しに理解した。それを裏付けるものが目の前にあるからだ。  首を傾げながら俺の顔を覗き込んだ晴輝は、どうしたの?と心配そうに尋ねている。その両腕はしっかりと枕を抱きしめていた。  確かに柚葉の言う通り今の晴輝には違和感がある。捨てられた子犬のように眉を下げているこの男は間違いなく晴輝だが、人が変わってしまったような……否、幼くなったような。  駿佑、と名前を読んで俺のシャツを引っ張った晴輝は、未だ枕を抱きしめながら瞳を濡らしてこちらを見ていた。 「おれのこと、嫌いなの?」  沈黙をそう解釈したのか、潜在的にそういう不安があったのかは分からない。ただ、その言葉に酷く動揺している自分がいた。  好きだよと即答することが出来なかった。  蛍光灯の光を反射して輝く晴輝の双眸が、それを肯定と受け取り光の影を溜めていく。  まずい、泣かせてしまう。そう思って手を伸ばした時には手遅れだった。  幼児のような嗚咽が迸ったかと思うと、ぼろりと音を立てるようにしてそれが頬を伝ったのだ。一度溢れてしまったら最後、留まることを知らない涙は晴輝の輪郭を縁取りながら落ちていく。 「ふっ、ぅ……や、やっぱり嫌いなんだぁ! ぅ、ぁあん……!」 「え、えぇ……嘘やん……」  えーんえーんと泣きじゃくる晴輝に圧倒される。こんなにも子供のように涙を流す男だったろうか。いや、そんな訳が無い。晴輝は成人済みの立派な大人だ。  ぐしゃぐしゃと自分の胸元に手繰り寄せたシーツに大粒の涙が落ち、吸い込まれて跡形もなく消えたかと思うと、また次の一粒が零れ落とされる。その繰り返しだ。 「ごめん、嫌いやないから!」 「ぅう、でもっ……しゅんすけ好きって言ってくれないからァ……!」 「好きや、大好きやで」 「ッ……ほんとに?」 「好きに決まっとるやん。ほんまに、大好きやで」  そう言って頭を撫でる。晴輝と目の前で泣きじゃくる男が全くの別物だと割り切ることが出来たお陰か、素面では絶対に言うことが出来ない照れくさい台詞も素直に伝えることが出来た。  愛の告白というよりも子供をあやすような感覚に近かったからだ。  親が子を慰めるように黒い髪の毛をぽんぽんと叩くと、顔を動かした晴輝が掌に頬を寄せる。  すりすりと涙で濡れた肌を擦り付けて全力で甘える晴輝に堪らない愛おしさが込み上げる。抱きしめてしまいたいと主張する衝動を抑えるのに必死だった。 「へへっ、嬉しい」  チークを塗ったように赤く色付いた目元はそのままに、アーモンド型の目をきゅっと細めて嬉しそうに笑う晴輝。  あの事件以来人間不信気味だった晴輝も、普段なら信じようとしない言葉すら今は純粋に飲み込んでしまうらしかった。  常に脳みそを回転させている普段の晴輝からは考えられない単純さだ。

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