16 / 44

7

 病院を出るや否や逸る気持ちに急かされた俺は柚葉にメッセージを送った。  彼女曰く豹変の正体は幼児退行のようなものらしい。悲惨な現実から自分の心を守るための防衛本能だ。  つまりあの時の晴輝は俺に嫌われたと思い込んで精神的に強いショックを受けてしまい、幼児退行を起こしたと推測される。晴輝を護りたいと思っていたのに、これでは本末転倒だ。  我ながら浅はかな行動に自責の念を強く覚えた。呵責が心に尾を引き心臓を締め付ける。  晴輝のことが好きなのに……否、晴輝のことが好きなせいで彼を傷つけてしまった。  この想いを認めたくなくて、気の迷いだと信じたくて、けれど気のせいなんかでは無くて。彼の存在が頭から消えてくれなくて。  どんなに否定しても心臓の音に嘘はつけないのだ。  そしてまた一つ、俺たちを動かす出来事が立て続けに起きた。  俺達のバンドは作詞をボーカルの奏多では無く晴輝が務めていたが、新曲の打ち合わせに彼は間に合わなかった。  一つのテーブルをメンバーが囲うこの状況は見慣れたものだが、その光景は一人が欠けるだけで全く違うものに思えた。ピースの足りないパズルのように不完全になってしまった俺達に笑顔はない。  重苦しく充満する沈黙を打ち破ったのはリーダーである奏多だった。彼は手に持った紙を俺達全員に配って言う。 「晴輝には及ばないけど俺も昔作詞してたことあるし……歌詞付けてみた」  真っ白な紙に綴られた黒い文字と楽譜がぼんやりと浮かび上がる。仕方の無いことだと分かっていたし、こんな展開幾らでも予想出来た。  しかし俺は現実をすんなりと受け入れられるほど論理的でも大人でも無い。  悔しさのあまり固く唇を噛み締める。  奏多の綴った歌詞を肯定しているメンバーを横目に俺の脳内では晴輝の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。  知識と経験を音楽として昇華し、永遠の存在として刻む俺の標は紙に丸めて捨てられたのだ。  俺達は本来一つでは無かったのか。  無意識のうちに楽譜を持つ十本の指に力が入り、紙がぐしゃりと音を立てる。  腹の中で煮えたぎった悔しさが体外へ出ようと藻掻き始めた時、耐えきれなかった悔恨が両眼からほろりと落ちていった。 「駿佑、お前……」  普段は語気の強い和人の抑圧されたその声は、前触れもなく泣き出した俺を心配して出たものだろう。それでも涙は止まらない。  その場にいた全員の視線を受けても尚、火がついたようにぼろぼろと溢れて治まることを知らないのだ。  瞼から筋を引いて零れる涙を拭うことすら億劫だった。やたらと熱くなっていく顔に反して、心臓は奇妙なほど静まり返っていた。  これ以上この場に留まることに耐えきれなくなった俺は部屋を出ることを選択した。  しゃっくりを上げようとする肺を抑えつけて振り絞ったトイレの三文字は、情けないほどに震えていた。  扉を閉めてそこに背中を預けても、暫くの間は噛み締めた歯の間から抑えきれなかった嗚咽が漏れ続けていた。

ともだちにシェアしよう!