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第三章 KISS and KILL

 数ヶ月ぶりに太陽を直に浴びた晴輝の頬や手の甲は、その名前を体現するように光を帯びてきらきらと輝いていた。  そうだ、本来晴輝は太陽のような人間なんだ。退院した彼の横を歩きながら思い出す。  一人で生活するのが困難になってしまった晴輝と精神的に落ち着くまで一緒に生活することが決定した数日後、長らく籠っていた病院から出たにも関わらず、良い意味で予想を裏切った彼は怖がる素振りを見せなかった。   知らない間に男性への恐怖心も薄れていたらしい。外に出るのも困難だと想像していた俺はその姿を見て胸を撫で下ろす。  それでも人とすれ違う度に顔を伏せている所を見ると、未だトラウマは断ち切れていないようだ。  確信を得ることが出来ないのは、俺の運転する車で俺の家に帰宅するまで、晴輝が他の誰とも接触しなかったからだ。 「おじゃまします……」 「なんでそんな余所余所しいねん。いっつもそんなんちゃうやろ」 「今までとは訳が違うだろ!」  遠慮するような所作を見せて玄関を跨ぐその姿を指摘すると、殊勝な笑顔を混じえて否定の言葉が飛んできた。取るに足りない普段と変わらぬ会話だ。  その笑顔を見て安堵したのは、晴輝を引き取る行為がただの自己満足で、迷惑に思われていたらどうしようと危惧していたからだ。   弱っている晴輝に付け込む形で同居に持ち込んだことを後悔していたから……。  それでもあの時、本当に下心は無かった。晴輝を助けたい一心だった。  初めて訪れた訳でもないのに部屋全体をキョロキョロと見渡す晴輝を後目に、風呂のお湯張りボタンを押した。流れる軽快なメロディは俺自身の心情を表しているようだ。便利な世の中になったものだ。ボタン一つでお風呂が沸かせるなんて。  お湯が流れる音を聞きながら廊下を抜けてリビングの扉を開けると、何も無いただの壁をじっと見つめて佇んでいる晴輝を見つけた。  一度自分の部屋に戻って必要最低限の荷物だけ詰め込んだ旅行用バックは、彼の足元で哀愁を浮かべている。  背を向けたまま黙り込んでしまった姿を見て動揺したのは、幼児退行を目の当たりにしたことで晴輝の僅かな変化にも敏感になっていたためだ。  心が波立つような焦燥感に駆り立てられる。  肩を掴もうとしたその時、晴輝は俺を焦らすようにゆるりと振り返った。 「……ありがとう、駿佑」  その言葉一つで緊張の糸は解かれた。俺の心は既に晴輝の手の中にあるのだと痛感する。  口角に微笑みを刻んだ晴輝の柔らかい表情に、ほっとして吐息を洩らす。直球で思いを伝えられ、擽ったいような気持ちになった。  照れ隠しのように自分のスッキリと整えられた襟足を弄りながら答える。 「気にせんといて。俺がやりたくてやっとるんやし……」  その言葉を聞いた途端、晴輝はニンマリと満足気な笑顔を作った。  これから毎日彼と生活を共にすると考えると、妙な緊張からか胸が張り詰める。 「病院だとゆっくり風呂も入れんかったやろ? 先入ってええで」 「おっ、いいの? ありがとう」  遠慮もせずにその提案を受け入れた晴輝は、足元にある大きな鞄を漁って寝間着と下着を取り出した。 「まだお湯溜まってへんで」 「体洗ってるうちに溜まるからいいんだよ!」  得意げな顔で晴輝は返答した。  病院での入浴は慌ただしい上、毎日入ることは出来ない。早く入らせろと言わんばかりに瞳を煌めかせる姿に圧倒され、俺は晴輝を引き連れて風呂場へ向かった。  大小様々なサイズのタオルが並んでいる棚を指差して脱衣所の説明、次に風呂場に並べられたシャンプーとボディーソープの位置を教えたところで見たら分かると制される。  そうですかとリビングに戻るために脱衣場の扉に手をかけた時、呼び止められた。 「……しゅんすけ」 「ん?」  振り返ると、そこには雪女のような笑みを貼り付けた晴輝の姿があった。  白い肌と黒い髪のコントラストがやけに美しく見え、それと同時に全てを彼に見透かされているような言い知れぬ恐怖を感じた。  刹那、魂が身体から乖離しかけた感覚すらあった。久しぶりに見る形容し難い表情に吸い込まれそうになったのだ。  たまに見せる晴輝らしくないこの顔には、未だ慣れる気配がない。 「覗かないでね」  真意の読めない表情を変えることなく唇だけ動かした晴輝はそう言った。  情けない程に心を揺すられているのはその表情のせいなのか、はたまた言葉のせいなのか。あるいはどちらもなのか。  雪女じゃない。鶴の恩返しだ。どこか冷静さを残しているもう一人の自分が呟く。 「…………覗くわけないやろ」  動揺していることを悟られないために、呆れている自分を演じることしか出来なかった。  平常心を保てと自分自身に命じながら同居生活に思考を巡らせている間に晴輝が風呂から上がり、俺が二番風呂を終えた後は二人でテレビを観ながらソファで寛いだ。日付が変わろうとしていることに気がつき、明日は朝から仕事があるため見ていたテレビを消す。  俺との間に一人分のスペースをぽっかりと空けて座っていた晴輝に声をかけた。 「そろそろ寝よか」 「えぇ、まだ眠くない」 「俺が眠いねん」  わざとらしく唇を尖らせて拗ねる素振りを見せる晴輝を無視して寝室に移動する。  しかし扉を開けて部屋に一歩踏み入れた瞬間、俺は重大な事実に気がついた。  瞬間硬直する身体。  これはとてもまずい。どうして今の今まで気が付かなかったんだろう。  自分の犯した重大なミスを目の当たりにし、思考が停滞していくのを感じた。  俺の後ろをノロノロと付いてきた晴輝に、どうした?と尋ねられる。警戒心のない澄んだ瞳を見て罪悪感が倍増した。 「布団一つしかないんやった……」  その言葉を聞き、晴輝の眼が小さく見開かれる。  以前の俺なら仕方ないで済ませて、晴輝にソファで寝ろと言い放っていただろう。  けれど今は状況が違う。何もかもが違う。  大体家に布団が一つしか無いことなんて知っていた筈なのに、何故寝室に入るまで気が付かなかったのか。潜在的に晴輝と同じ布団で寝たいという思いがあったんだろうか。煩悩のせいなのか?  一周回ってこの状態が恋愛の高等テクニックのように思えてしまった俺は慌ただしく巡る思考を強制的に停止させ、冷静に考える。  今晩どうするべきか。残された道は一つしか無い。 「……俺ソファで寝るわ」 「えっ、どうしてそうなるんだよ! 住まわせて貰う立場なんだし俺がソファで寝るって!」  名案だと投じた意見はあっさりと拒否されてしまい、自分がソファで寝ると主張する晴輝に辟易する。しかしここで引く訳にはいかない。 「バスタオルかけてれば大丈夫やろ、男やし」 「いや、俺も男だから!」  晴輝が男だなんて、そんなことは痛いほど分かっている。この一ヶ月でどれほどその巨大な壁にぶつかり、どれほど性別について考えさせられたか。  晴輝を女性のように思ったことは一度もないし、女性扱いする気なんて毛頭ない。そのため壊れ物に触れるような対応は御門違いなのかもしない。  それでも俺は彼を宝物のように大切に扱いたいのだ。性別の問題とは関係ない。  口を真一文字にさせて黙り込んでしまった俺と同様に、晴輝もまた黙り込む。視線を宙に巡らせて逡巡するような素振りを見せた後、晴輝は口を開いた。 「じゃあ、一緒に寝ようよ」

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