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 懸念点があった。  同居を始めてから稀にしか外出していないため大きなトラブルも無く晴輝と過ごして来たが、一つだけ懸念点があった。  毎日少しずつ、それは眼に見えて大きくなっていくのだ。  俺が意を決して指摘したのは許容範囲を超えてしまったためだ。 「流石に髪伸びすぎちゃう?」 「……別に普通じゃない? 髪長い男もいるだろ」 「せやけど……いい加減切ろうや」 「これでいいの。イメチェンだよイメチェン。これからはロン毛男子としてロックにいこうと思って」  肩にかかりそうなほど長い髪を指差して言ったが反論される。  伸びすぎて邪魔なのか最近は一つに括って生活している黒い髪は、晴輝が拉致されてから一度も刃を入れていない。  本当にイメチェンのために伸ばしているのなら口を出すことは無いが、指摘された晴輝の大きな猫目はうろうろと落ち着きなく揺れていた。嘘をついているのは明白だ。  考えられる理由は一つ。美容室に行くのが怖いからだ。  美容室には男性の美容師さんや理容師さんが居るし、客にも男性はいるだろう。  最近はマンションの傍にあるコンビニ程度なら一人で行けるまでに回復したが、美容室は難易度が跳ね上がる。散髪が終わるまで椅子から動けず逃げ道も失った状態で髪を触られるのだ。  ソファに晴輝を誘導するようにして手招きをする。戸惑いを見せながらもそれに従った晴輝は大人しく隣に腰掛けた。 「ほんまに髪伸ばしたいん?」  問いかけながら彼の髪を括っていたヘアゴムを抜き取る。支えが無くなったその真っ黒な髪は、はらりと音も立てずに肩へと落ちた。  一日中縛られていたせいで跡がついてしまった髪を撫でるように整える。女性のように細く滑らかなわけでないが、手触りが良い。綺麗だと思う。  大人しく撫でられていた晴輝が視界を遮っていた長い前髪を耳に掛けた。  見せつけるように行われたその動きから眼が離せないのは、俺が恋に落ちているからだろう。  俺にとっては晴輝が長髪であろうが坊主であろうが大した問題ではない。  どうでもいいからでは無く、どの髪型であっても想いが変わらないと言い切れるからだ。今の肩にかかる長髪も色気があって良いと思う。  しかし本当は切りたいのに美容室に行くのが怖いという理由で諦めているなら話は変わってくる。 「俺が切ったろか?」  不安を交えた瞳が小さく見開かれた。  嘘をついているならこの提案で真実が判明するだろう。  決断を下させるために、俺は小物入れに置いている散髪鋏を求めて立ち上がった。 「えっ! ちょ、いいって言ってるだろ!」 「なんで?」 「……だって、駿佑切るの下手そうだし」  先程同様、晴輝は視線を外してそう言った。  鈍い俺でも分かってしまう。この言葉は真実では無い。  晴輝の静止を無視して長い間仕舞われていた鋏を探す。普段自分で髪を切ることなんてないため暫く使っていなかったが、それは記憶通りの場所にあった。 「お、あったで」 「――ッ……!」 「ほんまは髪切りたいんやろ?」  見つけた散髪鋏を手に取り問いかけると晴輝は飛び跳ねるようにして後ずさる。  その姿は嘘偽りない拒絶の反応だった。  まさか本当に散髪が下手そうだから嫌がっているのかと不安に思い始めた時、顔中に畏怖を張り付けた晴輝が怖気を震わせて後ずさり、俺から距離を置いた。  続けて薄い唇を陸に上げられた魚のようにはくはくと動かす。  何か伝えたいことがあるのだろうと一歩踏み出し尋ねた。 「ん? なに、聞こえへん」 「……ぃ、やだッ!」  突然大声を上げたかと思うと強い力で身体を突き飛ばされた。  筋肉が落ちて弱っているとはいえ成人男性だ。俺の身体は派手な音を立てながら、後方に置かれている棚に衝突する。  並べられていた小物達が床に落ちていくのが、視界の中でスローモーションに映った。  顔を顰めるほどの痛みに耐えながら何とか瞼を押し上げると、黒い瞳を忙しなく揺らしている晴輝の姿があった。 「ぁ……ごめ、なさ」  突き飛ばされた俺よりも突き飛ばした張本人の方が驚いてるようだった。  ただでさえ大きい目を裂けるほど瞠り、みるみるうちに蒼ざめていくその顔にこちらが心配になってしまうほどだ。  温厚で怒りを表に出さない晴輝が声を荒らげるなんて、以前の彼からは想像がつかない。少なくとも俺は、晴輝が他人に手を上げるところを初めて見た。  三舎を避ける晴輝の名を呼んで手を伸ばす。一連の流れを見ると彼が加害者で俺が被害者という立場だが、事の発端が自分にあるという自覚はあった。  その証拠に晴輝は差し出された俺の手を見るや否や、弾かれたように立ち上がり部屋から逃げ去った。  ずきんずきんと染みるような痛みの中、耳を澄ませる。玄関を開ける扉の音が聞こえてこなかったため、どうやら外には出ていないようだ。  夜も更けたこの時間に一人で外出する勇気はまだ持ち合わせていないらしい。  その事実に胸を撫で下ろして一安心する。  鉛のように重くなってしまった身体を持ち上げて背中を撫でようとした時、左肘に痺れるような痛みが走った。背中と合わせて肘も強打したらしい。  俺はフラフラと立ち上がって晴輝を探すためにリビングから出る。廊下に繋がる扉を開けたが、一瞬で見渡せるそこに探し人はいなかった。  ここから先玄関までにあるのは風呂場とトイレのみだが、脱衣場と風呂場を覗いても姿はない。となると隠れられる場所はあと一つ。 「……晴輝?」  トイレの前まで移動した俺は中にいるであろう彼の名前を呼んだ。  返事はない。視線を下げると鍵がかかっていることに気がつく。  本当に髪を伸ばしたかったのか。それとも俺に切られるのが嫌なのか。  いや、そんなわけが無い。それだけで俺を突き飛ばすような奴じゃないことくらい共に過ごした数年で知っている。  何か、晴輝のトラウマに触れるようなことをしてしまったんだろうか。だとしたら一体何なのか……。  硬く閉ざされた扉を見つめて数秒、俺は行き詰まっていた思考に一つの解を導き出した。  晴輝がアイツらに何をされていたのか、俺は全く知らない。  しかしその解を見つけた瞬間、全身に稲妻が走るような衝撃を覚えた。  それを想像して、身体中の血が凍るほどの恐怖を抱いた。  何故早く気が付かなかったのか、何故その可能性を考えなかったのかと自責の念が渦巻く。  喉奥がひとりでに震えた。 「鋏が……怖かったんか?」  見当違いであってくれと願った。鋏が怖いなんて、それこそ髪を切られたという理由からどれほど良いだろうか。 「晴輝、ごめん……もう鋏持ってへんから、もう無理矢理切ろうとせえへんから……ここ、開けてもろてええ?」  扉に拳を当てて縋るように告げる。激しい悔恨にさいなまれた俺はぐるぐると底の見えない自己嫌悪に陥った。  晴輝、晴輝と何度か名前を呼んだ末、突然扉が開かれる。  文字通り縋るようにしていた俺の顔面に扉がクリーンヒットした。熱くなっていた目頭がその衝撃で急速に冷める。  鼻が折れてしまったのではないかと思い摩ってみるが、普段と何ら変わりない。良かった。ちゃんと付いている。  一連の動作をを見ていた晴輝は唇をあうあうと開閉させ、何か言いたげな様子だ。  持ち上げられた指先が俺の身体に向かって伸び、離れ、伸び、また離れる。  結局触れること無く下ろされたその手は自らの寝間着を握りしめた。 「俺のほうこそ、ごめん」  頼りなく震える声で謝罪をされる。  まるで揺蕩うような視線と言葉尻にどう対応するか、とつおいつ思案していると、下げられていた頭が緩慢に持ち上がった。  刹那、視線が絡み、直ぐに逃げる。 「……鋏…………こわい……」  その告白を聞いた瞬間、言いようのない憤怒が身体中を駆け巡った。  悔しさから奥歯をギリギリと食いしばり、握りしめた拳が小刻みに震える。  掌に爪が喰い込む痛みも、突き飛ばされて痛む背中も、扉と衝突した鼻の痛みも、その時は感じられなかった。  引き裂かれんばかりの胸の痛みの前では何も感じられなかった。

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