23 / 44

5

 トイレからリビングに移動し、晴輝が落ち着くのを見届けた俺はシャワーを浴びることにした。頭を冷やしたかったのだ。  湯に浸かった訳では無いため風呂場に籠もったのはせいぜい十五分程度だが、リビングには信じられない光景が広がっていた。 「……なにしとん?」 「あっ! おっそいぞ、駿佑!!」 「お前、なんで酒呑んでんねん!」 「夜はこれからだぜぇ、しゅんすけー!」  床に座って大口を開けている晴輝の傍らには空いたビールの缶が三本。  立ち尽くす俺を見兼ねたのか、真っ赤な顔でソファに置かれていたクッションを自分の隣に置き、ボブボブとそれを叩いた。隣に来いということだろう。  俺が駆け寄ったのは、晴輝がヘラヘラと笑いながらプシュと爽快な音を立てて四本目を開けたからだ。 「いやいや、なんでやねん! もうやめとけって……!」 「うわぁ、呑ませろよぉ!」  あろう事か四本目に口をつけようとしている晴輝を止めた。いくらなんでもペースが早過ぎる。  酒が好きなのは知っていたが、これではただのヤケ酒だ。  缶ビールを取り上げ、その手を天井に向かって高く伸ばす。最初こそ取り返そうと奮闘していたが、立つことすら面倒なのか晴輝は途中で諦めて分かりやすく拗ねた。  唇を尖らせている晴輝を見下ろしながら床に置かれたクッションに腰掛け、酔っ払いから遠ざけるように缶ビールを置く。明日も仕事があるため俺が飲むわけにはいかない。  そもそも俺は滅法お酒に弱いため、たとえ明日が休みでも飲むことは出来ないのだが。    床に鎮座する口が空いてしまったお酒の処遇を考え睨みつけていると、腕をグイグイと引かれて身体の向きを強制的に変えられた。  振り向いた瞬間肩に飛び込んだのは晴輝の頭。子猫が戯れるようにグリグリと額を押し付けられる。  お酒の力を借りて全力で甘えてくる晴輝に、素面の俺は狼狽えることしか出来ない。  どくん、どくん、と早まっていく心臓。 「な、なしたん急に」 「…………ごめん」 「え?」 「背中、痛かったよな……ごめん」  そう言った晴輝は埋めていた顔を上げた。パチリ、と音を立てて目線が交わる。  その時の俺は、眼の縁に赤色を帯びさせて申し訳なさそうに眉を下げた晴輝に魅了されていた。  体内にアルコールは入っていないのに、美酒の誘惑に酔ってしまった感覚があった。  頬を桃色に染めた晴輝は俺の沈黙を恐れるように濡れた瞳をゆらゆらと揺らす。 「大丈夫やで、ちょっとびっくりしたけど。もしかして、それでやけ酒したん?」 「ぅ、それもある、けど……」  晴輝は何かを伝えようと口を開いたが、そのまま黙って言葉を飲み込んだ。  俺は何も言わずに見つめるだけ。決して話させようとはせずに、自分から言い出すのをひたすらに待った。  暫くゆらゆらと空虚を漂っていた瞳が覚悟を決めたように俺の瞳を縫い止める。  酔っぱらいとは思えないその鋭さに圧倒され、息を呑んだ。 「髪、切って欲しい」 「ッ、…………大丈夫なん?」 「俺、早く復帰したい。でも、こんなに髪伸びてたらみんなに心配かけちゃうだろ? だから……」  この日が復帰に向けた第一歩となった。  言われるがまま散髪の準備をした俺は酔っぱらいを椅子に座らせ、床に新聞紙を敷く。その間も晴輝は俺の気が変わらないうちに早く切れ! だとか、人思いに殺せ! だとか喚いていた。  鋏を怖がる晴輝の視界に入れないようにそれを後ろ手に持ち、髪を切るために背後に回り込んで言った。 「とりあえず上脱いでや」 「なんで?」 「服に髪くっつくから」 「えぇ、恥ずいじゃん。駿佑のえっち」  振り返った晴輝が語尾にハートマークを付けて言った。  口角だけ上げてニヒルに笑う彼を見ていると、本当は俺の気持ちに気が付いているんじゃないかと思慮が頭を過ぎる。頭の中で舌打ちをかまして前を向くように促した。  勇気を出すためにお酒の力を借りた晴輝の思考回路は理解出来ないが、そんな所も愛おしく思えてくるのは恋心を持ち合わせている故だろう。 「しゅーんすけぇ、早く!」  しかし身体を左右に揺らしながら催促する晴輝を見てそんな感情もどこかへ消える。こんなに動かれたら髪以外も切ってしまいそうだ。  脳内にそんな不安が掠めた時、背筋を冷たいものがヒヤリと通った。  切ると提案したのは俺だが正直自信なんて無い。  最近はマネージャーと連絡を取ったり、以前のように作詞作曲に打ち込んだりと復帰のための準備を進めてるらしいが、明日明後日仕事に戻るわけでは無い。短くなり過ぎたとかガタガタになるとか、その程度のミスなら許されるだろう。  しかし髪以外のところに刃を入れてしまったら……。  蟠った緊張を解すために時間をかけて深呼吸をする。長い間身体の中に溜め込んであった空気を排出して新鮮な空気を吸い込んだ時、晴輝がこちらを振り向いた。  手に持っていた鋏をサッと背中に隠す。 「危ないから前向とっ、て……」  言葉が口から漏れ出るのを止めた。晴輝の呼吸が乱れていることに気がついたからだ。  酸素を求めるように開かれている口からは不規則で荒い息遣いが聞こえる。  はっ、はっ、はっ、と必死に呼吸する晴輝の胸は大袈裟なほど上下していた。  きっと、いや確実に、お酒のせいでは無い。 「っ、しゅんす、け」  晴輝の顔がみるみる歪んでいく。 「――はっ、駿佑、しゅん、すけ……ッ、しゅ、んすけ……! は、ぁ……駿佑、しゅんすけ! ゅ、んす……け……!」  何度も何度も何度も何度名前を呼ばれる。  俺が俺であることを自分に言い聞かせるように、俺が駿佑であることを確かめるように。  冷静になれと自分自身に命じ、膝の上で小刻みに震える拳にそっと手を乗せて告げる。 「せやで、駿佑や。大丈夫やから……俺を信じてくれへん?」  ふわりと優しい微笑みを意識しながら俺は言った。  その手を取って硬く握られた拳を溶かし、握りしめる。  少しずつ震えが収まっていくのを掌越しに感じて、以前柚葉が俺の目の前でそうしたように、自分もパニックになった晴輝を落ち着かせることが出来るようになったのだと嬉々とする。  しかしそれは脆い要塞。いつ崩れるかすら分からない。  失敗は許されない。そう自分に言い聞かせて鋏を髪に差し込んだ。  散髪は十分とかからなかったが、 精神的に弱っている晴輝にとってトラウマを抉られるようなその行為は、永遠のように長く感じられただろう。 「……よし、終わったで」  そう声をかけて鋏を置いた俺は予想より上手くいったと自分を評価する。  最も恐れていた髪以外の部分を切ることは無かったし、見た目も……まぁ、少し切りすぎてしまったがご愛嬌。  動こうとしない晴輝を横目に切り落とされた髪の毛が散らばる床に膝をつく。俯く彼の視界に入るようにその顔を覗き込んだ。  その瞳は、何も写していなかった。  意思も感情も持ち合わせない虚ろな眼差しが、散髪による底知れぬストレスを物語っていた。  短くなった晴輝の髪を撫でる。全ての光を吸収してしまいそうなほど真っ黒な髪から、はらはらと髪だったものが落ちていく。  髪が髪であるうちはとても美しく見えるのに、切り落とされてしまったら最後、汚いごみへと成り下がる。  でも何故だろう。床に散らばる髪だったものすら愛おしく感じてしまうのは。  かつて彼女だった人の抜け落ちたそれを見て、愛おしく思ったことが果たしてあっただろうか。  きっとこれは異常。  自分が自分では無くなっていく。自分で自分が恐ろしい。  そこにあるのはただの、執拗な愛。

ともだちにシェアしよう!