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 顔を上げて汗か涙かも分からない液体によって濡れた自分の顔を拭った俺は、晴輝の手を取り震える声で尋ねた。 「晴輝、いける?」  みんなに会えるか? という意味だった。それを理解した晴輝はこくりと小さく頷いた。  未だ不安げに瞳を揺らす彼の手を握ってリビングに導くと咄嗟に引き返すような小さな抵抗を感じたが、晴輝の腰に手を回して横から抱くように引き寄せてしまう。  空いた手でベランダの窓を閉めて鍵をかけると、座り込んでいた柚葉が一目散に晴輝の胸に飛び込んだ。  抱いていた晴輝の腰が手から離れ、密着していたの身体が僅かに遠のく。 「晴輝くんっ!」 「柚葉……久しぶりだな」 「ベランダ禁止」 「え?」 「晴輝くんベランダ禁止」 「……ハイ」  退院してから初めて会う二人。異性でありながら元より距離感が近いため抱擁を交わすその姿に違和感は無く、夜の街で見かける恋人にその像が重なった。嫉妬の念が無い訳では無い。  暫しの間再開の抱擁を交わした柚葉によるベランダ禁止という謎の令を大人しく承諾した晴輝に微笑みが漏れた。相変わらず晴輝は女性に弱い。  眼前にはつい数ヶ月前まで当然のように見ていた光景が広がっており、胸の辺りが熱くなっていく感覚があった。  同時に一度止まった涙がまた溢れ出す。 「泣くなよ、駿佑」 「ッ、はっ……誰のせいやと、思っとんねん」  頬を流れる涙を原因である晴輝の手で拭われる。肌を隠したいからなのか、所謂萌え袖が顔に当たって擽ったい。  また抱きしめたい衝動に駆られたが、それをしてしまったら本格的に涙が止まらなくなりそうで出来なかった。  事情を知らない二人が唖然とした表情でこちらを見ていたのが印象的だった。  た晴輝の大きな瞳がその二人に移ったのは、俺が涙を止めることが出来てからだ。奏多と和人はビクリと身体を震わせて硬直する。同様に俺の影から彼らを覗いている晴輝も凍りついたように固まっていた。  俺、奏多、和人、俺、奏多、和人と周回するように動いていた視線が、何往復かした後逃げるようにと柚葉のほうへ逸らされる。  もう見慣れてしまった晴輝の全身を覆い隠すような黒い服が、手の甲すらも見せたくないと言わんばかりの萌え袖が、涼し気な衣服に身を纏うメンバーに囲まれたことで痛々しく映った。  すぐ傍にある晴輝の気配が震える。自分の身を守るように自分を抱いたその様子は、止まらない震えを抑えようとしているようにも見えた。 「ぁ………ごめんなさ……おれ……ぁ、ぅう」  苦痛と恐怖に歪んだ顔、呻き声を上げる唇。  晴輝の身体がフラリと揺れたかと思うと、糸の切られたマリオネットのように膝から崩れ落ちていく。咄嗟に支えられたのは気を張っていたからと、このような事態に慣れてしまったからだ。 「大丈夫やから、落ち着いてや」  そう声を掛けながら半分脱力している身体をソファに運んでいる間も晴輝は辛そうな顔をしていて、縋るように俺の服を掴む手は助けを求めているようだった。  なんとかパニックになる前に晴輝を落ち着かせた後もテーブルを囲うように座った俺達の間には緊張感が張り巡らされており、直球な性格で自分を偽ることが出来ない和人ですら、間を繋ぐように出した緑茶を喉に押し込んでいる。  晴輝の口から事の経緯を話してもらうのが理想だが、それはあまりにも酷な話だった。そしてその役目が自分にある自覚もあった。   それでも初夏を迎えて熱を持った陽がジリジリと背中に照りつけるのを感じるばかりで、俺の唇は動くことを拒んでいた。  意を決した時、視界に映ったのは奏多の握られた拳。眉間に刻まれた深い皺とその手からは覚悟すらも感じられる。  空気の梵を感じたのは次の瞬間だった。  俺と柚葉の間で表情を無くす晴輝に向かって奏多の手が伸びていく。  続いたのは乾いた音。次に右手に伝わる衝撃。  俺が奏多の手を叩き落としたのは咄嗟の行動だった。脳を介さず反射的に手が動いたのだ。  冷静になれば奏多に敵意や悪気が無いことは分かるが、その時ばかりは彼が敵に見えたのだ。目の前にいる和人は突然のことに驚き眼を瞠る。  逆隣に座る柚葉に視線を移すと、彼女は晴輝を庇うようにその身体を抱き寄せていた。  俺達二人の行動は、まるで打ち合わせでもしたかのように目にも留まらぬ早さだった。 「……ぁ、ごめん奏多」 「大丈夫。俺こそごめんね」  直ぐに冷静になることが出来た俺が持ち上げた手を下げながら謝罪すると、小さく見開かれていた奏多の眼が普段通り穏やかなものに戻る。飽くまで淡々とした口調で返した奏多は考察でもするように晴輝と俺、柚葉を舐めるように見つめた。  リーダーである奏多はメンバーを良く観察しており、その柔らかくも強い瞳がこちらの思考さえ見透かしてしまいそうで恐怖を覚えた自分がいた。彼のことだ、考えのある行動だろう。  その理由を脳内で模索していると、奏多を凝視していた晴輝が柚葉の腕の中からするりと抜け出した。虚ろでありながら何人たりとも逃がさないような視線にこちらが狼狽えてしてしまう。  奏多、と名前を呼んだ晴輝が手を伸ばす。まるで手を合わせてくださいと願うように……。  その時の光景は俺の中で相当なインパクトを残した。絶望や落胆、怒り、悲しみ、そしてそれらとは別の強い何かが混ざり合い、真っ黒になって湧き出していくようだった。  体内でワンワンとアラームが鳴る。  晴輝が奏多に差し出している手を止めなければいけないと、本能が告げていた。割り込んでしまおうと自分の中の悪魔が主張していた。  しかしそれを行動に移さなかったのは、晴輝の顔がフッと落ちたからだ。全身の筋肉が同時に死滅してしまったように机に向かって上体が崩れていく。

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