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 その日はいつにも増して闇の密度が濃い夜だった。 子供に戻って騒ぎ疲れたらしい晴輝が眠ってから数時間が経っていたが、未だ俺は寝付けないでいた。皆が帰宅してから数時間、終電も終わっている時間帯のことだ。  晴輝と言葉を交わす一分は一瞬で過ぎ去るのに、彼が寝息を立てている今、同じ一分は嫌味なほどに長たらしい。  寝返りを打ち、暗闇の中で浮かび上がる白い輪郭を見つめる。  皆に晴輝のことを話した時、想像より遥かに彼のことを知らないと気がついた。結局俺は晴輝の身に何があったのか何も知らされていない。  自分が一番だと思い上がって過信していた事実に対する羞恥心が頭を痛める。  目元を掌で覆ってこれから先の未来に思考を馳せていると、不意に横で寝ている晴輝が唸り声を上げた。出かけた溜息が即座に引っ込む。  喉を締められたような声に驚いて身体を起こし、ベッド傍にある電気を付けて顔を覗き込むと、刻み込まれた眉間の皺が浮かんでは消え浮かんでは消えと繰り返している最中だった。  魘され続けている晴輝の肩を掴み、悪夢から救うために身体を揺さぶる。 「晴輝っ、大丈夫か? 晴輝!」 「――ッ、!…………はっ、はぁ……ぁ」  何度目かの声掛けで晴輝は眼球が飛び出しそうなほど目を瞠って飛び起きた。  獣のように息を荒らげる胸元が大袈裟なほど上下している。 「…………駿佑……おれ、また」 「やっぱり記憶無いねんな」 「ごめん……」  謝る晴輝の身体は汗でぐしゃりと濡れていた。額を滴る汗を拭き取って乱れた髪を整えてやると、晴輝が俺の寝巻きを縋るように掴んでいることに気がついた。  服の下で揺れる胸元から、汗でてらてらと光る彼の真っ白な首筋から、熱い吐息を漏らす桃色の唇から、目が離せない。その喉元に吸い付きたいとさえ思ってしまうのだから俺は末期だ。  ごくりと音を立てて固唾を飲む。汗でしっとりと濡れる髪も、上下する胸も、潤んだ瞳も、鼻につくような汗の匂いさえも、俺の心を掻き乱す要因となった。  いつからだろうか、純粋な恋心が醜い欲へと変わっていったのは。少し前の自分は晴輝を助けたいという殊勝な思いしか持ち合わせていなかったのに。  同居初日の夜。あの日の出来事が俺を深みへと堕としたのだ。 「今日、皆に晴輝のこと話す時……俺なんも知らないんやなぁって、気がついてん」  この欲を悟られないために言葉を紡いだ。晴輝の濡れた瞳の中には自分の溺れている姿があった。 「知りたいの?」 「……いや、俺は……晴輝が話したいって思うまで待つつもりやから、話したいって思ったらいつでも聞いたる」  掴んでいた手が離れていくのを名残惜しいと思いながら、昼間二人にも言った台詞を告げる。  本心は知りたくて仕方が無いと訴えていたがそんな自分を認めたくなくて、それ以上に弱い自分を見せたくなくて見栄を張った。  不安げに揺れる瞳。そこに映る俺の姿はやけに頼もしげで、晴輝にこう見られたいという思いが具現化したようだった。 「駿佑、俺のこと好き?」 「え?」 「なぁ、好き?」  突然のことに息もつけないほど心臓が飛び跳ねる。ただでさえ張り詰めていた動悸が更に激しさを増し、全身が心臓になってしまったように煩い。  以前もこんなことがあった気がする、と脳内で過去の出来事を反芻した。返答を迷ったせいで幼児退行させてしまったたその時のことを、俺は重く受け止め反省していた。  だからだろう。その言葉はやけにすんなりと口から出ていった。 「好きやで」  心臓の音に嘘は付けない。  俺はもう抗えないんだと思い知った。この胸の高鳴りこそが、問いに対する答えだった。  目の前には相変わらず不安げに瞳を揺らしている晴輝がいて、触れると崩れてしまいそうな儚げな雰囲気にくらくらと目眩がする。 「じゃあ、俺のこと気持ち悪いって思わない?」 「何やそれ、どういう意味?」 「これから俺が、何をしても……何を見ても、気持ち悪いって思わないって、約束出来る?」  晴輝の言っている意味を上手く呑み込むことは出来なかったが、その悲痛な問いかけに俺は無言で頷いた。まるで首が意思を持ったように独りでに動いたのだ。  完全に意識下から外れた行動だったが、了承した俺の姿を見た晴輝は己にかかっていた布団からするりと抜け出し、膝立ちで眼前に立ちはだかった。  少し高いところから見下ろしている存在感の強い瞳に射抜かれる。  俺の顔に熱視線を縫いつけたまま困惑の表情を固めて動かなくなってしまった晴輝に声をかけると、それを合図に自らの寝巻きを掴んだ。  驚愕から息を呑んだのはこの次だ。  あろう事か、晴輝は身体を纏うものを脱ぎ捨てたのだ。 「ちょ、は、晴輝! 何脱いどんねん!」  咄嗟に顔を逸らしたが相変わらず心臓は存在を主張している。鏡を見なくとも自分の顔が紅潮しているのが手に取るように分かる。  直ぐに過剰反応してしまったことを後悔した。意識していると自ら暴露しているようなものだからだ。  これまで晴輝の裸なんて更衣室や銭湯で数え切れぬほど見てきたが、今までとは状況が異なる。それ以上に彼に抱いているものが全く違う。  しかし俺の想いなど知る由ももない晴輝は、じわりじわりとこちら躙り寄った。膝立ちになっている晴輝が俺の右肩に手を置く。 「駿佑、見て」  艶のある低い声が耳元で反響した。  ぎぎぎと錻の人形にでもなったように首が不自然な動きで回り、なんとか前を向く。    え、と自分の口から一文字が飛び出した次の瞬間には、心臓が動きを止めていた。  頭を殴られたようなショックが全身を駆け巡る。まるで悪い夢でも見ているようだ。  フラッシュバックのように晴輝と交わした過去の会話が脳内に流れた。 『腕だけじゃないよ……首は、ほとんど消えたんだけどさ』 『覗かないでね』 『……鋏…………こわい……』 『えぇ、恥ずいじゃん。駿佑のえっち』  脳内で全てのピースが嵌っていく。 「ぁ……俺、なんで」  どうして気が付かなかったんだろう。その意味を考えていたらもっと早く気が付けていたのではないか。  晴輝の身体には夥しい量と種類の傷跡があった。  上半身の大部分は霜焼けのように赤く変色しており、二の腕の辺りは細い切り傷が無数に散らばっていた。  肩周辺や胴体に点在している円形の醜悪な跡は、煙草を押し付けられたときに出来たものだろうか。  晴輝が見つかってからもうすぐ二ヶ月になるのに、未だ前腕をぐるりと囲うように残る黒ずんだ痣が何を意味するのかは想像したくない。  脇腹と鎖骨下に二箇所ある蜈蚣を連想させる手術跡が、一層その残酷さを誇張させ見せた。  晴輝は何も言わない。俺は何も言えない。  悲惨な現実を受け入れるのに精一杯で、先程まで繕っていた自分の皮を被ることなんて到底出来なかった。  世界が白く染っていく。  目の前にいる晴輝が揺れ動くのを見た。直後、晴輝だけではなく部屋全体の輪郭が揺らめきながら歪んだ。  周囲が揺れている訳では無い。俺が目眩を感じているんだ。それ程強い衝撃だった。  彼の腕を掴んで背中に手を回して、その感触にまた絶望する。背中にも同じような跡があることが、見ずとも分かったからだ。 「気持ち悪いわけないやろ」 「……でも、汚いし」 「汚くない。前にも言ったやろ、晴輝は綺麗やって」  引き攣った自分の声を聞き、情けなさが募る。晴輝を守れるような格好良い男になりたいのに、俺はいつまでも格好悪いままだ。  少しでも不安を取り除いてやりたいと、見えない影に震え続ける晴輝の心に一文字一文字を刻むようにして言う。 「何があっても、俺は晴輝の味方やから」 「……本当に?」 「ほんまに」 「絶対?」 「絶対」  硝子細工に触れるように、それでいて一層強く抱き寄せた。  背中に回した手で俺の寝間着を掴んだ晴輝が、頭を預けながらありがとうと呟く。

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