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 その日を皮切りに晴輝は復帰に向けた準備を始めた。  メンバーとの再開で幼児退行してしまった晴輝を目の当たりにした時は会わせるのを逸ったかと後悔したが、結果的に良いきっかけとなったようだ。俺にトラウマを告白したことも、踏ん切りをつける一つの要因になったのかもしれない。  そして最も大きかったのは、晴輝の力になりたいと志願したメンバーが少しでも早く慣れるために俺の部屋に出入りしたことだろう。  どういった理由で活動休止してるのかを知らないファンは晴輝がこのまま引退してしまうのではないかと噂していたが、遂にこの日が来た。  数ヶ月ぶりに晴輝がステージに上がる喜ばしい日だ。一夜限りのライブだった。  開演十分前を告げる現場監督の声が待機場所に響き渡る。機材や衣装、ケータリングに囲まれたメンバーは各々イメージトレーニングや発声練習に勤しんでいる。  そんな中、部屋の隅で身体を硬直させている晴輝を見つけた。慌ただしく時が流れていく中、晴輝の触れる空間だけが時間を止めているようだった。  一歩、一歩、また一歩。  地面の感触を味わうようにして晴輝へと近付く。  灯を求める蛾のようにふらふらと吸い寄せられ、気が付けばすぐ傍に彼の顔があった。  頭を上げた晴輝と視線がぶつかる。俺は何度も目を逸らそうとしたが、複雑に絡みついた視線は容易には解けない。  晴輝の漆黒の瞳に艶を帯びた顔の男。その男に心の中で問いかける。  お前は晴輝をどうしたいんだ? 「しゅん、すけ……」  不安げに揺れる瞳を置き去りにして、まるで助けを求めるように俺の手を掴んだ晴輝から温もりが伝わった。緩慢に双眸が閉じられ、そこに映っていた男も消えて失くなる。  瞼で瞳が覆い隠された後も、深呼吸を繰り返す晴輝から目が離せなかった。  真っ白な肌に囲われて、その存在を主張するやけに桃色の唇に目線が止まる。緩やかな呼吸に合わせて唇も小刻みに震えていた。  その時の俺は忙しない待機室とは全く別の空間にいたように思えた。周りの音も人影も、その時に限っては全く感じ取れなかったのだ。  時間が、空間が、歪んでいく。  晴輝の瞼は閉じられたままだ。  誰が見ていてもおかしくは無い状況なのにも関わらず、正常な判断が出来なかった。桃に色付く唇から目が離せなくなってしまった俺は晴輝の持つ儚げな妖艶さに誘われてしまっていた。  その唇に触れたい。  その衝動だけに支配されていた。  ゆっくりと吸い寄せられた俺は顔を近づける。  鼻先が触れるほどの距離まで到達した時、俺の意識は現実に引き戻される。どこからともなく聞こえたシャッター音が鼓膜を揺すったからだ。  跳ねた心臓に誘発された身体は文字通り飛び跳ねるように後退させ、晴輝から距離を取る。長いこと繋がれたままになっていた手を離すと、じわりと汗がそこを濡らしていることが良く分かった。  自分の理性を欠いた行動が脳内で走馬灯のように呼び起こされ、体内から血液がサッと引いていく感覚。  晴輝の瞼は開かれていた。黒い瞳の指し示す先に目線を転じると、そこにはスマートフォンをこちらに向けた柚葉の姿があった。 「ゆ、柚葉……なに撮ってんねん!」 「あっ、バレちゃった」 「ちょお待てや柚葉! 消して、ほんまにお願い消してや!」 「えぇ、何が? 駿佑何かしてたの?」  スタスタと早足で俺から逃げる柚葉がわざとらしい口調と共に首を傾げて答える。突然始まった鬼ごっこを唖然として見つめる晴輝には構っていられない。  しかし足の速さではこちらの方が優勢なためなんとか追いつき身体を翻すと、予想に反して柚葉の瞳は蒼く冷え切っていた。  周囲には決して聞こえない囁きが赤い口紅の中から空気を揺らす。 「こんな時に何してるの」 「……え?」 「晴輝くんが男の人からの好意に怯えてること、分かってるよね?」 「ッ……ごめん、気をつける」  理性を失った自分の行動に対する正当な意見だと思えた。メンバーからもファンの皆からも末っ子という位置付けになってしまっているのは判断力の欠如した性格が理由なんだろうと反省する。自分が頼りない男だという自覚もあった。  項垂れていると背後から耳を打つ足音。衣装の裾を引かれて振り返ると、機材のコードとコードの間を縫いながら歩み寄る晴輝の姿があった。もし彼に猫や犬の耳が生えていたら間違いなく垂れ下がっているだろう。  大きな瞳が俺の不埒な視線を責める。  誰よりも力強く前を向いていた以前の晴輝はもういない。そしてその強かった晴輝が今頼っているのは他でもない俺なのだ。  どうせ自分は頼りない人間なんだと成長を諦めようとしていた自分を叱責する。そう言えば初めてのライブの時、緊張で硬直していた俺を励ましてくれたのは晴輝だったっけ。  多彩な照明に照らされて輝く晴輝が眩しく見えたのをよく覚えている。  晴輝は俺の憧れだった。  その時の光景を思い起こしながら、行くで、と笑いかけて晴輝の手を引いた。

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