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 時の流れは早い。廃人のように精気を失っても決して止まってはくれない。  一週間が経過した今も、晴輝は俺の家には帰って来なかった。荷物はまだ部屋に置かれたままだ。  仕事で顔を合わせる晴輝は眼を瞠るほどに普段通りだった。まるで何も無かったような立ち振る舞いをしていた。  けれど俺にはには分かる。否、俺以外のメンバーも気がついているだろう  その笑顔が作られたものだということを。  晴輝は弱く、そして脆い。 「っは、はぁ……ぅう……ゃだ、ごめんなさいッ……!」  それを立証するように、目の前にはパニックを起こす晴輝がいた。奏多は晴輝を何とか落ち着かせようと奮闘している。  会議の休憩時間にトイレから帰ってきた俺は傍にいるに和人に尋ねた。 「なんで?」 「わかんねえ、急に……」  ここまで大きなパニックを見たのは久しぶりだった。  晴輝は頭に爪を立てて髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き乱す。乱れた呼吸の隙間から苦痛に歪む喘ぎが漏れていた。  パニックの原因を探すために周囲を見渡した俺は直ぐにそれに気がついた。机の上にはギラギラと光る鋏が歯の開いた状態で置いてあったのだ。  咄嗟にそれを取り、自分の背中に隠す。  それでも一度始まったパニックが簡単に収まるはずもなく、がくがくと震えていた晴輝の細い両脚は自分で身体を支えきれなくなり、遂にその場に崩れ落ちた。  それを見た瞬間、俺は彼に駆け寄る――のではなく部屋を飛び出していた。  和人に名前を呼ばれた気がしたが止まることは出来なかった。  俺では晴輝を助けられない。今俺が出て行ってもパニックの材料になりかねない。  鋏を怖がっていたのがその証拠。晴輝は俺と共に鋏への恐怖を克服したはずだった。確かに最初は怖がっていたが、少しずつ慣れて触れるように回復したはずだ。  しかし今、晴輝は鋏に怯えていた。  それは俺と一緒に克服したものが、俺との日々が白紙に戻ってしまったことを示していた。 「柚葉ッ!」 「うわっ、びっくりした……」 「晴輝を助けたって」  探し人を見つけて肩を掴む。切羽詰まった自分の声が廊下中に反響した。息が乱れ、口腔でどくどくと動悸が打つ。  言葉の意味を理解した柚葉は途端に血の気が失せたように顔を蒼ざめさせ、晴輝のいる部屋へと走った。  全力疾走により上下する胸元を抑え、はっはっと弾む息を整える。視界が歪み、目頭が熱くなっていく。まずいと思い眉を顰め、唇を噛みしめた。  瞳は濡れていたが涙は溢れていない。  人気のない場所を求めてフラフラと徘徊した俺は静けさに囲われる階段の下に辿りついた。  今は誰にも使われていない階段だった。かつて自分の気持ちを認めたくなくて晴輝を避けていた時、柚葉に叱咤された場所だった。  乾いた笑い声が自分の唇から零れ落ちる。  焦燥を交えた柚葉の足音が遠ざかり、代わりに豪然たる足音が廊下の奥から鼓膜を打った。  気配を背後に感じ取ったのと同時に跫音もピタリと止む。 「一緒に居てやんなくていいの?」 「……俺が行っても怖がらせるだけやから。結局、何も出来ひん」  視界の隅で金髪が揺れた。聞こえたのは元来荒々しい性格を持つ和人の優しい声色だった。  止めてくれ、優しくしないでくれ。涙が出そうなんだ。  慈愛を仇で返すような言葉が脳裏に浮び、自分自身に呆れを覚えた。  柔らかな蛍光灯の光、灰色の階段、俺より少しだけ背の低い和人の気配。自分の指先が意味もなく壁をなぞる。  深く霧がかった世界の中、意思とは反して握られた拳が静寂を切り裂いて壁を殴りつけた。  額をそこに打ち付けると、無機質らしい冷たさが感じられる。じんじんと染み渡るような痛みが拳を襲ったが、暴れ出す感情に支配された身体は痛覚にまで意識をやる余裕が無いらしい。 「くそ、くそッ……!」  ドン、ドン、と鈍い音を立てながら何度も何度も殴り続けた。  一発、二発。  悔しかった。ただひたすらに悔しかった。 晴輝を傷つけた自分が許せなかった。  背中を撫でることさえ出来ない自分が情けなかった。  三発、四発。  どんなに晴輝のことを思っていても、もう傍にいることは出来ない。震えるその身体を抱きしめることすら許されない。  五発目を打ち込もうとした腕は動かなかった。 「もうやめとけ」  今まで傍観を決め込んでいた和人に身体を引かれる。顔を上げると、まるで自分が殴られたように目元を歪めた和人がそこにはいた。  掴まれた手首の先、自分の拳からは血が滲み出していた。遅れて痛みが脳に流れ込む。  俺の八つ当たりに耐えたその空間は、今一度静寂に囲われた。  本格的に梅雨に入り、最近は雨ばかり降っている。  雨の気配は窓を閉め切っている部屋の中にも届いており、本当に夏が近づいているのかと疑問を抱くほど冷ややかな空気だった。  窓ガラスは雨つぶを塗して曇り、重みを増した陰湿な雰囲気が部屋を浸した。  その日、俺の手には晴輝の荷物が入った大きな鞄があった。  二人になったタイミングを見計らって声をかけると、数週間ぶりに交わる彼我の視線。  たった数週間。されど数週間。俺の中でその時間は、何ヶ月もの長さに引き伸ばされていた。  俺に名前を呼ばれた晴輝は右の口角だけを不器用に釣り上げて笑う。感情を司る機能は右脳にあるから真実は左に出るんだぞと得意げに言っていたのは、晴輝……お前じゃなかったか?  胸の肉が抉り取られ、空いた空間に木枯らしが吹き流れいた。理性と本能が対立し、今にも張り裂けてしまいそうであった。  どこかで渡すのをやめてしまおう、このまま晴輝と暮らした証を持ち去ってしまおうと未練たらしく言い続けている自分がいた。 「これ、荷物」  しかし俺はそれだけ言って鞄を手渡した。それがケジメだったのか諦めだったのか、自分でも分からない。  ただ、本能を見せてはならないという強い意志だけがあった。 「駿佑、俺……」  鞄を受け取った晴輝が俺の顔を見ずに唇を動かす。憂愁の影で顔を曇らせ、何かを伝えたいらしかったが、彼は瞳を揺らして言い淀むばかりだった。  これ以上干渉してはいけないと理性が言っていたのに、それが困難に思えるほど悲愴な面持ちであった。  ぐっと感情を押し込んで拳を握る。伸びた爪が手のひらに刺さり僅かな痛みを齎した。  本当は晴輝の身体を抱きしめて、連れ去ってしまいたかった。愁いを帯びた顔をこのまま見続けていると本当にそれを実行してしまいそうで、そんな自分が怖かった。  俺は辛くあるべきなんだ。告白もせずに色慾だけを押し付けて晴輝のトラウマを抉った罪を甘んじて受け入れ、謙虚に背負うことだけが、俺の出来る唯一の罪滅ぼしなのだ。  だから背中を向けた。もう、振り返ることはしない。  震える声が背後から鼓膜を擽った。  それ聞いた瞬間、ゆっくりと歩を運んでいた俺の脚がピタリ動きを止めたたが、直ぐに何事も無かったように歩き出す。  その時晴輝が何て言ったのか聞き取ることが出来なかったが、消えることなく心に降り続けていた鬱屈な雨が止んだ気がした。  俺はこの時、晴輝と決別したのだ。    大好きでした。  ありがとう。

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