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第四章 His heart

 心臓は鼓動を止めず、地球は回り続け、時計の針は留まることを知らない。俺の心を置いてきぼりにして、世界は前に進んでいく。  晴輝と決別してから一ヶ月が経過した。思えばこの一ヶ月は味気ない毎日だった。  少なくとも俺の心はあの日に置き去りにされている。  朝起きて、風呂に湯を張り、顔を洗い、歯ブラシをし、水を飲んで、朝食を取り、服を着て、仕事に行く。家に帰り、風呂に湯を張り、お湯に浸かり、体を拭いて、髪を乾かし、夕飯を食べ、布団に入る。  俺の日常は晴輝が居なくても変わらず回り続けた。どんなに虚しい日々であろうとも、俺の生活は変わらなかった。  自分の姿を俯瞰して見ると、感情を失いプログラムを全うするだけのロボットのように思えたが、それでも心臓は止まらなかった。ロボットのようにその生活を熟し続けた。  俺の心は戻って来なかった。 「温泉?」 「そうです温泉! ホテルじゃなくて温泉を取ってみました」  マネージャーが目じりを下げて言った。  日を跨いで行われるライブや撮影の際、当然だがホテルが用意される。しかし今回は地方撮影ということもあり、マネージャーの計らいで温泉を予約したらしい。 「でも今の時期は混み合ってて一人一部屋取れなくて……男子は大部屋でお願いします」 「えっ」  不意を突かれた晴輝が短い声を上げる。驚きと困惑を含んだ声色を聞き、その場にいた全員の視線が彼に集まる。  しまった、と分かりやすく顔を顰めた晴輝は気まずそうに下唇を噛み締めていた。 「すみません、やっぱりダメですよね」 「いやっ、大丈夫です! ……大丈夫」  項垂れたマネージャーを見て必死に大丈夫と繰り返す晴輝はやはり優しい。  温泉で大部屋。最悪なシチュエーションだ。  第一に晴輝は温泉に入ることが出来ない。男の裸を見るのは嫌だろうし、何より彼の身体には無数の傷跡がある。  一人部屋なら黙って部屋風呂に入れば解決するが、大部屋の場合皆に心配されるだろうし、例え周りが察してくれたとしても座に堪えない空気が流れるのは阻止出来ない。  そもそも晴輝は俺達と布団を合わせて寝られるのだろうか。少なくとも俺と同じ部屋で寝るのは嫌に違いない。  そんな心配から晴輝の顔を覗き混むと、視線を感じ取った彼が顔を上げる。二つの目線が空中で交差した。  それはコンマ数秒の凝視であった。目が合ったことにギクリと喉元を震わせた俺は視線から逃げるように目を逸らす。  荷物を渡してしまってから彼我の関係は風前の灯火となっていた。もしかすると今回の温泉はそれを見兼ねたマネージャーが気を使った結果なのかもしれない。  当日の流れを脳内でシュミレーションして頭を抱えている間に会議は終わり、その日は解散となった。スタッフ共々三々五々に帰宅していくのを横目に荷物を纏めて部屋を出ようとすると、晴輝に名前を呼ばれた。  素直に跳ねる心臓。  しかしこの動悸は、以前のように晴輝が好きだからという甘い理由から来るものではない。  晴輝が俺を怖がるのと同様に、俺も晴輝との接触を恐怖していた。もしまた傷つけてしまったら、という警戒心から過剰に避けている自分がいた。  脳は音を立てて回転するが言葉は見当たらず、ただ鞄を握りしめることしか出来ずに立ち尽くしていると、先に晴輝が口を開いた。 「ぁ……ごめん……なんでも、ない」  晴輝の右手は自らの左腕を強く握りしめていた。  タンクトップの俺と相反して長袖長ズボンの晴輝が痛々しく映る。  本格的な夏を迎えたこの時期に未だ腕を出さないということは、前腕に刻まれた痣は未だに消えていないのだろう。

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