36 / 44

3

 二人より早く風呂から上がり急かされるようにタオルで乱雑に頭を拭く。  焦燥感が高まっていく中、綺麗に折りたたまれた浴衣を広げて袖を通した。  駆け足で廊下を渡り部屋に辿り着いた俺は、旅館らしい襖を勢い良く開けて晴輝の姿を探す。  温泉に行ってる間に宿の方が布団を敷きに来たのだろう。襖から一番遠い場所にある布団で晴輝は独りぽつんと寝ていた。  暫くぶりに見た寝顔だった。  寝ている晴輝は普段の眼力が無いせいか幼く見える。一緒に暮らしていた頃は朝が弱い彼を起こすのは俺の役目で、毎日この寝顔を眺めていた。  寝息を立てる晴輝の横に座る。こんなにまじまじと顔を見たのはいつぶりだろう。  そこには晴輝を愛おしいと思う自分がいた。  距離を置くことで気持ちが薄れるかもしれないと思っていたし、それを期待していた。  それでもこの一ヶ月間、俺は無意識のうちに晴輝を目で追っていた。自分で頭を抱えてしまうほどに俺の視線は晴輝に縫い付けられていた。  そして今、久しぶりに晴輝の寝顔を見つめてはっきりと愛おしいと感じたのだ。  濡れ羽色の髪に触れる。  普段しっかりセットされている髪から想像するのは困難だが、風呂上りの晴輝の髪は見た目以上に手触りが良い。野良猫を撫でたら予想外にふわふわだった時と同じ感覚だ。  ぼぅっとしながらその髪を撫でていると、背中からピシャリと襖を開ける音がした。途端に恋愛ドラマのような甘い空気が掻き消される。  俺は跳ね上がるほど身体を強ばらせて振り返った。 「……うっわぁ、分かりやす」 「う、うっさいわ!」  和人はひくりと口角を震わせ、晴輝が寝ていることを確認してから呆れたように呟いた。  やりどころこない羞恥から入口に立ち尽くす二人を睨みつけていると、俺の隣ににドカリと座った奏多が尋ねる。 「駿佑、晴輝の隣で寝る?」 「……いや、やめとくわ」  そう答えて立ち上がり、晴輝から最も離れた布団へと移動する。腰を下ろすと臀部からひやりとした冷たさが伝った。  晴輝の傍を離れようとしない俺の様子を踏まえての発言だったのだろう。 「一層のこと同じ布団で寝ちゃえばいいのに」 「そういうの、ほんまに勘弁してや」  荷物を整理していた和人の悪戯な笑みと台詞を一掃して睨みつける。  露天風呂での発言といい、今の発言といい、先程まで持ち合わせていた和人への感謝の気持ちが途端に薄れていく。  俺たちはまるで修学旅行のような気分を味わいつつも晴輝を起こさないように小声で雑談を交わし、明日も撮影があるため日付が変わる前に眠りについた。  いつもと違う布団と枕に違和感を覚えつつ、仕事の疲労感からか弾指の間に睡魔に襲われる。  夜もとっぷりと暮れ、時計の針が真上を通過してから暫しの時が経過した頃だった。 「……しゅ……け、ん……すけ……」  覚醒しきらずぼぅっとしている意識に、誰かの呼びかけを聞いた。  夢の中にまで響くその声に促され薄く瞼を上げると、不鮮明な人影が映った。  脳の中枢にはまだ眠気がこびりついており、ぼんやりとした頭で何やら取り乱している和人を黙って見つめる。 「起きろ駿佑ッ、晴輝が……!」 「…………へ?」  切羽詰まった声が晴輝の名前を呼んだことで急激に意識が覚醒した。  和人は気が動転して言葉が見つからないのか、口をはくはくと動かしながら自分の左前を指さす。  その先に視線を送ると、大丈夫、大丈夫と繰り返している奏多と、過呼吸を起こしている晴輝の姿があった。  はっはっはっ、と歪んだ顔から吐き出される激しい息遣いは、最も離れた場所にいる俺の鼓膜をもダイレクトに揺らす。 「か、紙袋! 紙袋使うんだっけ?」 「いや、紙袋はダメだって聞いたことある」  バタバタと足音を立てて部屋を巡回していた和人が奏多に紙袋の使用を却下され、その場に立ち尽くす。  晴輝の背中を撫でる奏多は冷静になれと自分を制しているようだが、例えリーダーと言えどこういった場面に立ち会うのは初めてらしく、こちらも対処出来ていない。  パニックになった人を見てパニックになる、パニックの二次災害が起こっていた。  振り返った和人とパチリ、視線がぶつかった。 「俺らじゃ無理だ、駿佑!」 「頼む駿佑……晴輝を、助けてやってくれ……!」  和人と奏多が顔面を蒼く染めながら懇願する。  対して俺の鼓動はどくんどくんと身体中に響いており、心臓は今にでも破裂してしまいそうであった。  そこには明瞭とした恐怖があった。  晴輝が苦しんでいる。でも俺は…… 「……ゆ、ゆずは」 「柚葉は今いないだろ!」 「ぁ……でも、おれ……」  無意識のうちに彼女の名前を呟いていた。  晴輝がパニックになると決まって彼を助けていたのは柚葉だった。俺はいつも少し離れた場所からそれを眺めているだけ。  ただひたすらに怖かった。晴輝を助けられる自信がなかった。  だって俺は、晴輝を裏切ってしまったんだから。  過呼吸の原因は俺にあるかもしれない。  もし傍に行ってパニックが大きくなってしまったら、もし、拒絶されてしまったら、もしまた恐怖の眼差しを向けられてしまったら。  もし、もし、もし、もし、もし……

ともだちにシェアしよう!