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 ステージを後にした俺は真っ先に晴輝にメッセージを入れた。  明日の夜、俺の部屋に来てください。  ただそれだけの簡潔な内容だった。既読の文字は直ぐについたが、返事は無い。 「駿佑、大丈夫?」  スマートフォンを置くのと同時に、柚葉に声を掛けられた。  俺より下にある綺麗な瞳が心配そうにこちらを覗き込む。 「大丈夫。言えてよかったって思っとるよ」 「……そう、頑張ってね」  柚葉は何かを続けようとしたが、息と一緒に言葉を呑み込んだ。彼女が何を言おうとしたのか俺にはわからなかったが、その顔に悲痛の色が浮かんでいるのは見て取れた。  言及はしない。柚葉が何を思慮しているのか聞いてしまうのが怖かった。  ステージ上で想いを打ち明けた時、この数カ月間張り詰めていたものが穏やかに融解していく感覚がした。  圧倒的な静けさに包まれ、崩れ落ちた姿とは裏腹に、頭は冷静そのものだった。  扉の向こうでは、スタッフが慌ただしく作業をしている物音が聞こえるが、ラジオから流れる音楽のように現実味がなかった。それほどまでに異質な空気が流れていた。  そもそも普段は終わった瞬間シャワー室へ飛び込む面々が、全員控え室に揃っていること事態が異質なのだ。 「ごめん、みんな……」  あまりにも空気が淀みすぎていて、俺が何か言わないとこの陰湿に取り込まれてしまうような気がして、そう呟く。  椅子に座ったまま顔だけこちらに向けた和人が返答する。 「こういうときは、ありがとうだろ?」 「……ありがとう」  三人の笑顔に釣られて頬が綻ぶ。  奏多、和人、柚葉。  此処にいる全員は紛うことなき仲間なのだ。  重荷を下ろしたように体が軽くなり、俺は少しだけ浮遊感を覚えた気がした。  陽が沈んで街中が夕闇に支配される中、空では月が我が物顔で輝く。太陽の力を借りている癖に自分の時間だと存在を誇示しているのだ。  全身の神経が研ぎ澄まされ、四方にアンテナが張り巡らせた状態で一日を過ごしていた俺の身体は強い緊張感に灼かれる。  夜は長い。陽が沈んだ瞬間からカウントされるなら、数時間前に迎えている。  日付が変わるまであと数時間。  それまでに晴輝が訪れなければ、俺は――  何も置かれていないテーブルに、何も置かれていない床。住み慣れた自分の部屋はこうして俯瞰して見ると、モデルルームのように生活感が欠如していることを知る。  乾いた喉を潤すために冷蔵庫を開けると、本来お茶と果実程度しか入っていないそこに 孤独に佇む缶ビールを見つけた。奥に追いやられたそれを手に取り、扉を閉める。  実際は二ヶ月に満たない期間なのに、一年ほど篭城されていたのではないのかと思わされるほど凍えきった缶から指へ、痺れるような冷たさが伝わった。  俺の買ったものじゃない。勝手に買って、勝手に冷やして、置いてきやがって。  あれ以来酒は一滴も飲んでいなかった。  プシュ。最も簡単に口が開き、プルトップが軽い音を立てる。ビールの匂いが鼻腔を擽った。  冷やされた缶に、ゆっくりと唇を近づける。  恐らくこれが晴輝がこの部屋に居たことを示す、最後の証であった。  これを飲み干してしまったら……  喉の渇きはそれを欲して疼いていた。  しかし俺の唇はそれに触れることなく離れていく。  傾けた缶から黄色い液体が落ちていく様が、編集を施されたコマーシャルのようにスローモーションに見えた。  どぽ、どぽ、どぽ。  所謂大人の味と称される苦味に反して不規則に描かれる放物線は美しく、俺はただ黙て零れゆくそれを眺めていた。  掃除された綺麗なシンクを汚しながら衝突したビールは、音を立ながら排水溝に吸い込まれていく。  最後の一滴がシンクに落ちるまで、瞬きもせずに見届けた。

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