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目的だった喉の渇きを思い出して冷蔵庫から麦茶を取り出した時、部屋に充満していた寂寞を電子音が切り裂く。
途端に心臓が役目を思い出し、滲み出た冷や汗がじっとりと胸元を濡らした。
自分の鼓動があまりにも煩かった。収まれ、収まれと心の中で唱えるほど動悸は早く、そして大きくなっていく。
握りしめた拳がカタカタと小刻みに震えた。漆黒を映し出したまま動かないテレビドアホンのスイッチを押す。
「ッ……なんや、和人か」
『なんだとは何だ!』
画面には俺の期待した人物ではなく、雑な扱いを受けてご立腹な和人が映し出されていた。とりあえず入れろと訴える彼にひとつ溜息をつき、マンションのドアロックを解除する。
なんて間の悪い。別に今日来なくてもいいのに。
そこまで考えてハッとする。
事情を知る和人がこのタイミングで俺の部屋を訪れる理由なんて無い。何か今日の内に面と向かって話さなければならない訳でも出来たのか。
あまりにも鮮明な胸騒ぎがした。
嫌な未来を想起させるような黒々とした不安が心中を占め、乾いた笑いが自然と零れ落ちる。
ふらふらと雲の上を歩くような覚束無い足取りで小物を並べている棚へ向かった俺は、引き出しを開けて散髪鋏を手に取った。
銀色に輝く刃がシャキシャキと音を立てて開閉する。
晴輝の訪問を期待して鍵を掛けずにいた玄関が開かれた音を聞いたが、身体は思うように動かなかった。
嗚呼、まずい。独り部屋で呆然と鋏を持っているところなど見られたら、精神的に追い詰められていると勘違いされてまう。
辛いなんて思う資格、俺にはないのに。
全て俺自身が招いた結末なのに。
意識が乖離してしまったように、何も考えられなくなっていく。
耳を澄ませていないと聴き逃してしまう程遠慮がちにリビングの扉が開く。
俺の手には未だ鋏が握りしめられており、それを隠すのすら億劫だった。
「駿佑……?」
瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
自分の耳を疑った。
虚無になっていた思考が一転、音を立てながら回転していく。
背後にいるであろう彼の姿を捉えるように、恐る恐る振り返った。
「え……な、んで?」
扉の前には、晴輝の姿があった。
俺を見るや否やびくりと肩を震わせて一歩後ずさった晴輝の視線は、俺の顔ではなくその少し下に縫い付けられていた。
言いたいこと、伝えたいことは数え切れないほどあった。
けれど彼の姿を見た瞬間思考は白く溶け出し、言うべきこと等どこかへ消え去ってしまった。
晴輝がもう一度自分の足で此処を訪れてくれた事実が嬉しくて、それだけで救われたような気分を味わった。
気がついた時には弾丸のように晴輝に向かって走り出していた。自分の意識とは別の、反射的な行動だった。右手から鋏が滑り落ち、カシャンと音を立てて床とぶつかる。
晴輝の背中に腕を回し、勢いに任せて細い身体を強く抱擁した。
俺の体重を支えきれずにバランスを崩した晴輝は一歩二歩ふらふらと後退し、そのまま壁と衝突した。ドンと鈍い音と共に小さい呻きが上がる。
「ッ……いっ、たぁ」
「あっ、ごめん晴輝!」
衝撃を堪えるような声が直ぐ傍で上がり、熱を持った脳が急激に鎮静されていく。自分の身体と壁で晴輝を挟んでいるこの体制に既視感を覚え、大袈裟なほど震えて飛び退いた。
廊下の壁に背中を預けたまま鉛色の瞳がこちらの様子を伺うようにゆらゆらと逃げ惑っている。
晴輝と向き合うことを未だ恐怖する自分を叱咤し、心を落ち着かせるために深く息をついた。
「……無理矢理キスしたり、酷いこと言ったりしてごめん」
どうして俺が晴輝に怯えているんだ。
自分の弱々しい声があまりにも戦慄しており、羞恥と情けなさが募るばかりだ。
口から出る声は震え、何故だと首を折って始めて自分の身体がカタカタと震えていることに気がつく。
逡巡していた。何を言うべきか、何を言いたいのか、何を言っていいのか。
長い間思考を巡らせてたが、出した結論は変わらない。何度も脳内でこの時をシュミレーションし、言うべきことは既に決めていた。
「一緒にいたいって言ってくれたとき、ほんまは嬉しかった。でも、傍にいるとまた暴走しちゃいそうで、怖くて……晴輝のこと守りたいって思っとったのに、傷つけてもうた自分が……許せなくて」
ヒクヒクと痙攣する喉元のせいで言葉全てが何かを恐怖するように震えていた。
壁に寄り掛かり自分のシャツの裾をギュッと握りしめていた晴輝が困惑を交えた瞳で俺を見つめる。期待など既に捨てていたが、いざ歪んだ表情を目の当たりにするとやはり堪えてしまう。
「俺は駿佑と一緒に居たかったよ? でも駿佑はそうじゃなかったんだろ?」
「そんなことない、俺も――」
「たまたま俺だったってだけで、本当は誰でもええんやろ! ……そう言ったよね?」
「それは……本心じゃない。強がっただけで、ほんまは俺も……」
晴輝の視線は責めるように鋭いものだったが、それでも俺は言わなければならなかった。
これを言わないと元には戻れない。永遠に臍を噬むことになってしまう。
自分の固唾を呑む音が、息を潜めたように静まり返る廊下に響き渡った気がした。
「友達に……戻ってくれませんか」
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