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 もし、許されるのならもう一度、晴輝と笑い合いたかった。  ただそれだけだった。  けれど晴輝がそれに対して返答をすることはなかった。二人の間には沈黙が流れるだけで、俯いた晴輝が顔を上げることはなかった。  その反応が何を意味するのか、答えはひとつだ。  憂いが彫刻のような顔に陰を落とし、その白を際立たせる。こんな時でも晴輝は美しかった。  頭の中が痺れ、ずるずると深淵に呑み込まれていく。  俺はこの感情の名を知っていた。  絶望だ。 「……そう、やんな…………今、すぐには無理やけど、いつかこの気持ちは捨てるから」  だからいつかまた、俺に笑顔を見せてくれませんか?  晴輝の笑顔が一番好きだから。  残惜しいなんて思う資格は無い。二言三言交わした後、俺は晴輝が立ち去る後ろ姿を瞬きもせずに見続けていた。  言うべきことは言った、筈だった。  それなのに胸の中は霧がかかったよう晴れない。この蟠りが消えない限り、前には進めないと思った。  ぷつん、張り詰めた緊張の糸が切れた音がした。  途端に底知れぬ悲痛が全身に遅いかかる。視界が滲み出し、ぐにゃりと歪んだ。  行ってしまう。そう思った瞬間、俺の積もりに積もった恋心は理性という名の鎖をあっさりと引き裂き、晴輝を手に入れたいという願望となって現れた。  俺は本当に言いたいことを言ったのか? 「――ごめん、やっぱり嫌や」  立ち去ろうとする晴輝の腕を取り、後ろから骨張った身体を抱き寄せた。  冷えきった俺の身体の中で、晴輝に触れている箇所だけがじんじんと熱を持っている。  その熱がゆっくりと頭まで昇り、気がついた時には涙が頬を伝っていた。  瞼から零れ落ちたそれは、俺が顔を押し付けているせいで晴輝の肩をじんわりと濡らしていく。静かに流れていた涙はやがて嗚咽に変わった。 「はる、きっ……前みたいに、一緒にいてほしい……!」  涙声を悟らせまいと気丈に振舞おうとしたが、僅かながらの理性では繕うことすら叶わなかった。  子供みたいに駄々をこねて晴輝の身体を強く抱き締める。 「いかない、で」  こんなつもりじゃなかったのに、困らせたくなんてなかったのに、両手から理性がぼろぼろと転ろげ落ちていく。自分が何を言っているのかよく分からなかったが、それは本心に違いなかった。  腕の力を抜いて向かい合うように晴輝の身体を反転させる。歪んだ視界の向こう側で、不安げに揺れる晴輝の姿を見た。 「好き、大好き」  想いがひとりでに口から溢れ出していた。  眼を見て、その心に打ち込むようにして、俺は晴輝に告白した。  本当に? と消え入りそうな声で晴輝に問いかけられた俺は、自分の胸元に彼の耳を当てるように抱擁した。  僅かだが晴輝の方が背が高いため首を折るこの体制は辛いはずだが、彼は俺に身体を預けてくれた。 「聞こえる?」  俺の心臓は相変わらず素直で、緊張からどくんどくんと高鳴っていた。  駆け足で刻まれる鼓動に気がついた晴輝は何も言わずに俺の胸に頭を埋めている。 「心臓の音に、嘘はつけないんやで」  暫しの間されるがままになっていた晴輝が両腕でぐいと俺の身体を押し退ける。彼の体温が俺の中からぽっかりと抜け落ち、住み慣れた廊下がやけに寒いものに思えた。  心を落ち着かせるように晴輝は深い呼吸を繰り返す。その息遣いが止まると、まるで時すらも止まってしまったのではないかと杞憂を抱くほどの静寂に身が包まれた。  永遠のように長い一瞬であった。  次の瞬間、俺の視界いっぱいに晴輝の顔が映し出されていた。  今、唇に何か…… 「俺も、すき」  鼻と鼻が触れ合うほどの距離に眼の縁を赤く彩らせた晴輝がいた。  溢れ続けていた涙が困惑からぴたりと止まる。  俺の頭の中ではある種の混乱が生じていた。言葉の意味を咀嚼しようとしたが、あまりにも突然な事で脳は回らなかった。想定されていない言葉を前にして、告げられた単純な単語の意味さえ理解するのに数秒の時間を要した。  からかわれているのか、それとも俺の告白が正しく伝わっておらず、友達としての好きだと捉えられてしまったのか。 「…………それは、どういう意味の」  俺のその言葉を聞いた瞬間、小さく見開かれた晴輝の両目に堪えるような光の影が溜まっていくのを見た。 「――ッ、ぅ……俺だって、ずっと好きだった! なのにっ、駿佑が……っ、しゅん、すけが突き放したんじゃんかぁ!」  耐えられなかった涙が晴輝の煌めく瞳から零れ落ちる。  一生懸命に言葉を紡ぐ俺の大好きな顔を、堰を切ったように流れる大粒の涙が濡らしていく。  嗚呼、まずい。また泣かせてしまった。   声を上げる日高は子供のようで、俺は場違いにもそんなことを考えていた。  真白な腕が俺に向かって伸びる。先程俺がそうしたように身体を引き寄せられ、抱きしめられた。 「心臓の音に、嘘はつけないんだろ?」  そう言った晴輝の胸は早鐘を打ち、存在を痛いほど主張していた。  彼の心音を聞いた瞬間、困惑のあまり白く染っていた脳と思考が一斉に動き出す。純粋な喜びよりも信じられない思いが勝っていた。  眼球の奥がじんじんと熱を持ち、一度止まった涙が再度溢れ出す。枯れてしまったと思っていた俺の両眼からは涙が止めどなく溢れ出していた。

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