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第8話 閉ざされたドア

 むかむかと腹を立てながら、テーブルの上に既に用意されていた夕食を一人で黙々と食べ始める。  なんなのだ、一体。  壱流など知ったことではない。勝手に二人で気兼ねなく何でもやったら良いのだ。  しかし俺が部屋を出てからほどなくして、壱流が無言で廊下に出てきた。俺はあえてかける言葉もなく、通り過ぎるその姿を見送る。  静かに、壱流の部屋のドアが閉まる音が耳の端で聞こえた。 「あーあ、壱流惨敗だね。ごめんねえ、竜司くん」  裸エプロンからちゃんとした服に着替えたまひるが、俺のはす向かいに腰を下ろす。先ほどのことはまるで気にした様子もなく、さばさばとした態度に見えた。 「……ごめんとか言われても」  こっちは気まずい。  あんな姿にすんなり欲情してしまって、抵抗することも出来なかった。  今は謝罪の言葉を吐く柔らかい唇に翻弄されて、流されそうになった自分に嫌悪すら 覚える。  壱流の意図も見えないまま、本能の赴くままに気持ち良いことだけ考えていれば良かったのか。  それにしてもさっきの壱流のあの態度。  一体何様だ。思い起こせば結構ひどいことを平気な顔で言っていた気がする。まひるは頭に来たりしないのか。  ご主人様の命令だなんて、どうかしている。  言われてみれば確かに「ご主人」ではあるのだろうが、何か違う。  壱流に言われたら俺のでも誰のでも舐めるのか。あのままあいつが来るのがもっと遅かったら、それ以上のことに発展していたかもしれない。  俺の内心を知ってか知らずか、まひるは苦笑いを浮かべてテーブルに肘をついた。 「はっきり言うと、あたしは結構楽しいのよね、こういうの。でも今の竜司くんは、さっきみたいの嫌っぽいから当分よしとくね。気を悪くしたなら、謝る。ごめんなさい」  姿勢を正してぺこんと頭を下げたまひるは、炊飯器から白米をよそって自分の作った食事に箸をつけた。大根おろしの乗ったハンバーグは、ファミレスで出されるのよりずっと旨かった。  ……ちょっとまひるの言葉が引っ掛かった。  今の竜司くんていうのは、なんだ?  以前の俺は、平気であんなことを受け入れていたのだろうか。  だからまひるも壱流も、躊躇などないとか。悪気や悪戯心なんてまるでなくて、普通の行為だったとしたらどうしよう。どんなキャラ設定だったんだよ、俺は。  それでもやはり、急には受け入れがたい。 「もう……ごはんなのになあ。壱流しばらく出てこないかも。竜司くんに怒鳴られて、かなりへこんでる。あのあと速攻萎えちゃった。わかりやすーい」 「――俺のせいかよ」  わかりやすくなんか、ない。  何がなんだか、まるでわからない。  俺に怒鳴られたくらいで萎えるなら、最初からするな。あんなに無遠慮に目の前で突っ込みやがって、とか思ったら、意思とは裏腹にじりじりとまた熱を持った気がして困った。 「余計なお世話だけどさ……さっき、避妊とかしてなかった気がするんだけど……いいんだ別に?」 「あー、壱流とする時はいつもだよ。万が一出来ちゃっても、まあ籍入ってるしとか思ってんじゃないのかな? 聞いたことはないけど」 「ふうん……」  まひるという相手がいるのに、どうして俺なんかと……と、またつまらないことを考える。  会話が途切れ、また黙々と食事を胃に収めていたら、まひるがちらりとどこか不安そうに、壱流の消えた部屋の方を見た。 「拗ねちゃってるだけだったらいいんだけど」 「何が」 「ちょっと見てくる」  まひるは立ち上がると、閉ざされたドアの前まで行って軽くノックした。 「壱流ー、おなか減ったでしょ」  ドアに耳をつけ、中の様子を窺うが、返事はない。再びこんこんこんとしつこくノックするが、やはり無言だ。渋い顔をしたまひるは、俺の方を見て、手招きをした。 「あたしじゃ多分出てこないから」  中に聞こえないくらいの囁くような声で言って、渋っている俺の腕を引くと、背中を押してドアの方にぐいと近づける。 「なんで! あいつが勝手にへそ曲げてるだけだろ。ほっときゃいい」 「体調管理もマネージャーの役目だし。ちゃんとごはん食べてくれないと、……だからお願い」  拝むようにされて仕方なくドアに向かって呼びかけようとして、一旦ストップが入る。 「真田、じゃなくて、壱流、だからね」  くそ。  なんでそんなことまで指示されなきゃならないのだ。俺が呼びたいように呼べばいいじゃないか。  しかしまた拝まれてしまったので、嫌々折れる。 「壱流っ。メシだぞ。いつまで部屋にこもってんだおまえは。マジでガキか」 「乱暴ー……もちょっと優しく言ってくれたらいいのに」  まひるが軽く非難したが、俺だってまだ不機嫌が直ったわけではない。優しくなど言えない。  俺の呼びかけに、ドアが音もなく開いて僅かな隙間を作った。素直に出てきたら良いのに、出てこない。俺は眉を寄せ、まひるの顔を一度だけ見てから足を踏み出す。  明かりは消えていた。  部屋に一歩入った時、裸足だった俺に濡れた感触がまとわりついた。なんだ、と思って照明のスイッチを探り、明かりをつける。  ――どきん、とする。  不穏な光景だった。   空気清浄機が静かに動いていた。壱流は相変わらず無言のままで、床にぺたんと座り込んでいる。  ほんの少し、錆の匂いが鼻を衝いた。  俺の足の裏についたそれの正体は、不透明な赤い液体……血だ。  ドアのところから壱流のいる辺りまで、血痕が点々と続いている。うっすらと背筋に寒気が走る。 「な……にやって……」  床にはやはり血のついたカッターナイフが落ちていて、服にも赤い染みがぽつぽつと付着している。そこから覗いた左手首に、さっきはなかった真新しい切り傷が何本も出来ていた。部屋の外からまひるがそれに気づいたのか、慌ててどこかに走っていくような足音がうしろで聞こえた。  壱流がぼんやりと、俺を捕捉した。 「……竜司」 「痛くないのか、それ」  顔をしかめた俺に、壱流は出血している自分の手首をちらりと見る。そんなには深くないのかもしれない。  死には至らない、リストカットの痕。 「痛いよ」  淡々と言った壱流は、俺から目を逸らしたまま、床に落ちたカッターを拾い上げる。ちきちきと刃を出して、再び手首にそれを当てる。 「よせって!」  座っている壱流に近づいて、右手を掴み上げる。掴んだ手も自分の流した血液で、汚れていた。  勢いでことんと床に落ちたカッターの刃が、フローリングに新たな血の染みを作る。壱流が使えないように素早くそれを取り上げてから、目線を合わせるように傍にしゃがみこんだ。 「痛いんなら、やめろ。馬鹿かてめえ」  これでも一応、出来るだけ優しく聞こえるように心がけたつもりだった。今はあまり刺激しない方がいい。 「痛くなかったら、こんなことしない」  ぽつんと呟いた壱流が、ふと顔を上げて俺をじっと見つめた。一瞬その黒い瞳が泣きそうに揺らいだ。  何かを言おうとした唇は、凍り付いたように沈黙した。

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