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第9話 悪循環

 救急箱を持って戻ってきたまひるが、部屋の出入り口のところで立ち止まった。  入ってきて手当てしてやれば良いのにと思っていたら、薬臭い箱をことんと床に置き、無言でドアを閉められた。  ……俺にやれって?  よくわからないため息が出た。持ってきてくれた救急箱の持ち手を掴んで壱流の隣に腰を下ろし、仕方なく蓋を開ける。  消毒薬と……なんだろう、包帯巻いた方がいいんだろうか。絆創膏ではカバー出来ない。  躊躇しながらも、とりあえず無抵抗な壱流の左腕を掴んで引き寄せる。 「……痛い」  冷たい消毒薬を傷口にかけられて、壱流が小さく呟いた。 「当たり前だろうが。こんなに傷だらけにして、何やってんだ。あてつけか?」 「そんなんじゃない」  ふい、と顔を背けてあらぬ方を見た壱流の顔色は、ほんの少し青白く見えた。俺の部屋での勢いはどこへ行ったのだ。  怒った俺へのあてつけでないなら、何のために自傷行為などに走るのだろう。  これが初めてではないはずだ。壱流の手首には、古い傷も残っている。  名前など呼んでやっても無駄だ。きっと、そういうことではない。  じゃあ、何だ。 「竜ちゃん……さっきの、やだった? まだ俺のこと怒ってる?」 「怒ってるってゆーか、今は呆れてる」  もう怒りを通り越してしまった。手首など切られる方がインパクトがあったし、飯を食ったらほんの少し落ち着きもした。  そういやさっき、痛くなかったらしないなどと口にしていたが、どういう意味だろう。  サドかと思ったら今度はマゾか。俺は痛いのなんてごめんだった。 「俺のこと見捨てたい?」 「ばーか、そういうことじゃねえよ。ただ、ちょっと理解の範疇を超えるっつーか。俺の中のおまえは、もう少しシンプルだった」  過去と現在の壱流を比較しても仕方ないとわかっていた。  空白の時間がある。その中で何がこいつに起こっていたのか、俺は知らない。 「……俺には竜司の方が、わからない」  ごつんと壁に後頭部を軽くぶつけて、壱流が天井を見上げる。 「俺は至ってシンプルだ。――なあ、」 「何」 「昨日までの俺って、今の俺とは違うのか?」  疑問だったことをぶつけてみたら、壱流は少し逡巡するように視線を彷徨わせてから、傷だらけの手首に視点を合わせた。 「うん……わりと」 「どんなだったんだ?」 「ちょっとモラルに欠けてるって言ったらわかりやすいかな……」  モラルって。  俺にしてみたら、壱流やまひるの方がずっとインモラルだ。その人物にモラルが欠けてるなんて言われたら、結構ショックだ。どんな男だったんだ俺は。 「昨日さあ……竜司が俺のこと、壱流好き、一番好き、ずっとずっと愛してるって言うのね。ずっとなんて、ほんと嘘臭い。あっさり忘れるくせに。――そんで抱くの。俺がもう疲れたからストップとかお願いしても、少しするとまた始まっちゃう」 「……それ、俺?」  本当だろうか。  どうにも自分の行動とは思えなくて、疑いの眼差しを向けてしまう。その視線に気づいたのか、壱流が小さく笑んだ。 「竜ちゃんに信用してもらえないのが、一番辛い」 「――あ、いや」 「無理もないのはわかってる。覚えてないこと俺から言われたってさ、結局はどこかに嘘があるんじゃないかって思うんだよね。知ってんだ。何度も繰り返してるから。だから俺も、あんまり言いたくはない。それでまた、溝が出来る。なんかこう、悪循環だよねえ」  確かに、そのとおりだ。  どれが真実かなんて俺には見極められない。記憶がないのだから当然だ。日記でもつけてろよ昨日までの俺、と消えた自分を罵ってみて、ふと考える。  ……もしかして、部屋の中探したら、そんなんがあったりするか? 「俺記録とか残したりしてねえの?」 「さあ……知らない。俺が知ってんのはスマホのメモ。……あ、そういえば」  壱流は何かを思い出したように、一度停止して俯いた。 「なんだよ?」 「……いや、ちょっと恥ずかしいこと思い出した」 「さっきの3Pも結構恥ずかしいぞ。なんでもいいから、言えよ。俺はなんにもわかんねえんだから」 「あの……、ハメ撮りされたことなら、ある」  ……それ、俺?  そんな趣味はない、と思いたいのだが、そもそも壱流を抱いていること自体がおかしい。  ハメ撮りなんて考える俺も、もしかしたらいるのかもしれない。……今の俺は、ドン引きする方だけど。 「竜司が忘れちゃった時に、これでも見せて思い出させてやれって。その動画見せながらさ、また俺のことめちゃくちゃ抱くの。……信じてないだろ?」 「いや……えーと……」  つい先ほど信用されないのが辛いなんて言われたばかりだったので、素直に肯定することが出来なくて困った。かなり困惑した顔をしていると思う。すんなり受け入れることは出来ないが、とりあえず壱流の言うことを噛み砕いてやろうと努力してみる。 「その動画、残ってんのか?」 「えげつかなったから、すぐ消した。恥ずかしいもん」  ……残念なんだか、ほっとしたんだか、自分でもよくわからない。  別にそんなもの見たくはない。ただ、本当にそういうことがあったという記録が提示されれば、俺だって認めないわけにはいかない。何かの足がかりになると思ったから。 「昨日……記憶なくす前、」  壱流の声のトーンが、少し落ちた。  昼間の質問の続きだろうか。何か思い出したのかと待っていたら、言葉が続いた。 「俺、竜司を殺そうとしたんだ」 「――ああ?」 「出来なかったけど」  あまりにも予想していなかった科白に、思考が停止する。  いきなり、何を言うのか。  それが事実なのかどうかよりも、本当に意味がわからなくて怒る気も失せる。どうしてそんな展開になったのだ。  ……あ、もしかして。  壱流は自分を抱く俺のことを、好きなんかじゃなかったのではないか?  今日話した内容を最初から辿ってみても、俺が壱流を好きだと言ったという話は出てきても、壱流が俺をそういう意味で好きだという言葉は、一度も出てきていない。  考え込んでいる俺をよそに、壱流がまた言葉を発した。 「そしたら竜ちゃん、また記憶喪失になってた。俺のことすごく好きだった竜司じゃなくて、前から知ってる友達の顔になってた。それはそれで、嬉しかったんだ。……だけど」  言葉はそこで途切れた。  なんと答えたら良いのか迷って、ひとまずくるくると包帯を巻いてやった。  一旦立ち上がって勝手にクローゼットを探り、着替えを物色する。今着ている服は、血で汚れてしまっていた。いつまでもそれを身につけてるのは、なんとなくいたたまれない。  ばさりと代わりの服を放って、「とりあえず着替えろ」とぞんざいに言った。壱流はぼんやりと、床に落ちた服を手に取る。  服を掴んだまま、その体を丸めて自分の膝を抱えた壱流の姿は、猫のようにも思えた。

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