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第10話 発端
入江竜司が初めて記憶を失うことになったのは、昼間の熱がまだ残る暑い夜だった。
8月の、終わり。
放浪の旅に出ると言った竜司は、とりあえず北の端から攻めてみようと北海道行きを決めて、真田壱流はそれについていった。
アルバイトをしつつ敷金礼金なしの小さいウィークリーマンションを点々と借りたり、安いビジネスホテルに泊まったりしながらの生活。
北から徐々に南下していろんなところで路上ライブを演ったり、知り合った音楽をやっている人間と一緒にライブハウスで演ったり、好きに過ごしていた。根のない草のようだったが、それはとても楽しかったのだ。
竜司は気心の知れた友達だったし、二人だけというのは意外と気楽だ。
それがあの夜、変わった。
無事に手術を終えて竜司の意識が戻った日、壱流はアイスの入った袋を提げて見舞いに出向いた。意識が戻らなかった間も、ずっと病院に通い詰めていた。怪我をしたのは自分が原因だった。
(ちょっと憂鬱……)
意識が戻ったのは喜ばしいことだが、開口一番何を言おう。
速攻謝ろうか。自分がやんちゃな観客とトラブルを起こしさえしなければ、竜司は怪我などしなかったのだ。
壱流をかばって、頭を殴られた。
殴りかかった相手も、図体のでかい竜司を見てひるんだのかもしれない。やらなかったらやられるとか勝手に判断して、手加減が出来なかったのか。
相手の心理など壱流には関係ない。金属で殴られたら痛いに決まっている。得物 を使うのは卑怯だ。
死んだ、と思った。
彼の深紅に染めた髪の間から、それよりも赤い血が噴き出したあの時。
その夜の光景をまざまざと思い出し、壱流は寒くもないのに身震いした。
怖い。
竜司が死んでしまうのは怖い。だからずっと、早く意識が戻ればいいと祈っていた。少しくらい、おまえのせいで、とか嫌味を言われたって構わないではないか。文句を言っても良いだけの負傷をしたのだ、彼は。
病室の出入り口のところで手を消毒しながら、壱流は何度か深呼吸をした。
(――頑張れ、俺)
足を踏み出して、白い色の目立つ部屋の中に入る。今は午後を少し回っていて、昼食も済んだ頃だ。起きていると良いのだが。
「竜ちゃん、具合どお」
窓の方を見ていた包帯の巻かれた頭部が、ゆっくりとこちらを振り返った。壱流の姿を捕捉してもしばらく無言で、どこかぼんやりしているようにも見えた。
(まだ麻酔の影響とか出てんのかなあ……)
それとも怒っていたりするのだろうか。
壱流はベッドで身を起こしている怪我人に近づいて、傍にあったパイプ椅子に腰を落とした。
「アイスとか、買ってきてみたんだけど、……食う?」
内心どぎまぎしながら笑顔を作ってみたら、竜司は手に持たれたアイスの袋をなんとなく見ながら、ぽつんと言った。
「……あんた、誰?」
冗談にしては、特に面白くもなかった。
本当はあの時、大人しく家族のいる家に戻るのが良かったのかもしれない。
家から遠く離れた病院で、入院中は竜司の母親が通って来ていた。連れ帰ってもらえば、状況は変わっていただろうか。
少なくとも友達であるとは言え所詮は他人の壱流に依存する生活よりかは、家族と一緒にいた方が色々と都合が良いはずだった。
退院する頃になって、家に帰ろうか? と聞いた彼の母親に、何故か竜司はうんと言わなかった。
「壱流といる」
そう、言ったのだ。
怪我をする前竜司は、壱流などとは呼んだりしなかった。
それは特に問題のあることではなく、気にもしなかったのだが、記憶喪失に陥っていると知った時複 雑な思いで「真田壱流です」と名乗ったら、その後壱流と呼ぶようになった。
もしかしたら壱流が竜司と呼んでいたから、自分も下の名前で呼ぶべきだと考えたのかもしれない。
しかしその変化は、なんとなく奇妙だった。
どうして壱流と一緒にいることを選んだのかも、その時はわからなかった。
退院したあと、壱流のところに一緒に住むようになってしばらくしてから、その奇妙さ加減を肌に感じるようになった。
それまでも、家賃節約のために同じ部屋に住んだりなんてことは結構していたし、記憶のない男を一人にしておくのは忍びなかったのでなるべく一緒にいることを選んだのだが、それはもしかしたら良くなかったのだろうか。
「このギター……俺の?」
「そうだよ。弾いてみるか?」
ギタリストなのだということは、既に教えた。
一緒に組んでいたことも、二人になる前のことも、なんとか記憶を呼び起こそうとしてたくさん喋った。 どこか他人事のように耳を傾ける竜司が、痛々しく感じられてもどかしかった。
部屋に置いてあったギターを手に取ったものの、竜司は躊躇したようにしばらく停止していたので、ピックを渡してやる。
探るように弦を押さえ、三角のピックを握る男。記憶がないのだから、きっとギターの弾き方も忘れてしまっているんだろうな、すごく良い音を出す奴だったのに、と残念に思っていたら、普通に弾き始めたので驚いた。
昔から知っている音。
ずしんと響く、重たいギター。
「竜司! 思い出したんだ!?」
怪我のショックで忘れてしまっているだけで、何かの拍子にあっさりと記憶は戻るかもしれないと聞いていた。ギターを握らせて思い出したのかと喜んだのも束の間、ふと手を止めた竜司は静かにギターから手を放して呟いた。
「……いや」
そんなには甘くなかった。
がっくりと首を項垂 れた壱流を不思議そうに見ていた竜司が、ふと近づいた。
「壱流、ごめん」
「……何で謝んだよ。竜司は悪くない。悪いのは、」
俺だ、と言おうとして口が止まる。
忘れている相手に、自分に非があることを告げるのはなんだか怖かった。
それまでの関係もリセットされている現状で、自分のせいで怪我したなんて知ったら、どう思うだろう。
家に帰る、と言い出すかもしれない。
それはそれで良い選択だとわかっている。けれど、それは責任を放棄しているようにも思えたし、一緒にいることに精神的苦痛を味わうこと――つまり自分が原因であるという現実――から逃げるような気がして、なんとなく嫌だった。
言えない。
もう少し良くなったら、改めて謝ろうと思った。それすらも「逃げ」の一種だと理解していたが、今は記憶を取り戻すのが先決だ。
「どこか痛いのか?」
顔を歪めた壱流に、静かに尋ねた低めの声が、何故かとても近くで聞こえた。
痛いのは壱流ではない。
竜司だ。
彼の痛みを知ることが出来ない。頭を割られた経験などない。体は痛くなかったが、心が痛んだ。
顔を上げたら、竜司がすぐ傍にいた。
「……りゅ」
なんだろう、と考える時間もなかった。そのまま体を引き寄せられ、軽く唇を奪われた。
瞬間思考がフリーズする。
「な、な、なに、なにをして」
混乱した。
「唇が……」
「は? く、唇が?」
「苦しそうだったから」
竜司は穏やかな笑みを浮かべて、すぐに体を開放した。
言えない、唇。
見透かされたのか、と思った。
激しく動揺した。
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