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第13話 軌道修正

 目が覚める前に、竜司の声が聞こえた気がした。  壱流 壱流 壱流 ……  ぐるぐるぐるぐる名前を呼ぶ声。   可愛い 好き 壱流 痛い     大好き 壱流 苦しい 壱流   悲しい 竜司 思い出して 竜ちゃん    嫌だ  壱流       怖い……誰。  壱流はぼんやりと目を開ける。 「……夢」  壁と竜司の間に挟まれて、ベッドの上でぐったりと眠りの中に落ちていた壱流は、体のだるさと傍にある体温に、それが夢でないことをすぐに悟る。 「現実……かぁ」  起き上がろうとしたが、竜司の腕が邪魔していた。  満足したように眠っている。でかい図体が、壱流がベッドから落ちないように柵の役割を果たしていた。  腕をどけて、起き上がる。  豆電球だけが点いた薄暗い部屋。時計を見る。午前1時。喉が渇いた。体が痛い。  壱流は重たいため息をつき、脱ぎ散らかして床に落ちていたパジャマを拾い上げる。ベッドから降り、少ししわになったそれを羽織った。ボタンを留めようとして、指先が小刻みに震えているのに気づく。  竜司の感触が、生々しい。 「パンツ……どこ」  暗がりの中を目が彷徨い、やがて目的の物を捕捉する。黙々とそれを履いて、パジャマの下にも脚を通す。腰が妙に重たい。 「――ぅ、」  突然息苦しくなって、壱流はその場にしゃがみこんだ。竜司の規則的な寝息とは別に、前触れもなく不規則な呼吸が喉からこぼれ始める。  苦しい。  酸素が足りない。  息が出来ない。  助けて。  手が痺れてきた。  眩暈がする。  過呼吸か。駄目だ、落ち着かないと。落ち着け壱流。もう終わったことだ。  壱流は自分に何度も言い聞かせ、どうにか呼吸を元のペースに戻そうとする。それでも苦しいのは止まらなくて、掻き毟るように自分の体をきつく抱き締めた。 「……寒……」  呼吸が幾分落ち着いてきたら、ふと寒気を感じた。竜司が入院している間に夏は終わり、今は11月の上旬だった。幾分、冷える。  だがそういうことではない。歯の根が合わない、わけのわからない寒さを感じていた。  かたかたと震え始めた壱流に、ベッドで満ち足りた眠りを貪っていた竜司は目を覚ました。 「どうした? まだ、夜中……」 「な、んでもない」 「寒いのか」 「……寒い」 「布団に入れば? こっちはあったかい」  のんびりと言った竜司に振り返ることが出来なくて、壱流は首を横に振った。 「ちょっと……風呂で、温まってくる」  バスタオルを持ってゆくこともせずに、ぼんやりと浴室に足を向けた壱流に、ベッドの中で竜司が顔を曇らせた。 「やっぱ強引だったか……?」  かりかりと頭の怪我していない部分を掻いて、壱流のいなくなった部屋で低く呟いた。  お湯の張られていない浴槽に体を丸めて座り込み、頭上から降り注ぐ熱いシャワーに打たれる。栓をした浴槽には徐々にお湯がたまり、冷えた体が沈んでゆく。 (なんなんだこれは……)  怯えているのか、自分は。  竜司にされたことが、そんなにショックだったのか。壱流は自問してみる。  途中までは、竜司がしたいなら仕方ないと思うことも出来た。しかし実際最後までされてしまった今になって、ひどく動揺している。  ぽたぽたと黒髪から落ちる雫が、頬を伝った。まるで涙のようだと思った。現に泣きたい気分だったが、不思議と涙は出なかった。  単調なシャワーの音は、心地良い。  落ち着く。  凍えていた体が、ほどけてゆく感じがする。  静かに目を瞑った。 (落ち着け……俺)  なんでもない、こんなこと。  竜司が味わった痛みに比べたら、どうってことない。ちょっと慣れないことをされただけで、こんなの単なるスポーツの一種だと思えば良い。 (体使わせてやっただけじゃん……)  それだけだ。  どうしても嫌なら抵抗出来たはずだ。それをしなかったのは、受け入れたということだ。現状を受け入れろ。 (そうだろう?)  胸の下辺りまでたまってきた温かいお湯に浸かりながら、壱流は自分の思考回路を無理矢理軌道修正する。  ゆっくりと目を開ける。  何も怯える必要はない。  竜司のことは好きだ。友達だからって、寝ていけないことはない。自分を可愛いと、抱きたいと思うなら、そうすれば良い。受け入れてやるのはけして難しいことではない。 (そうだろうか?) 「……難しく、ない」  膝を抱えていた腕を解き、お湯の中で脚を伸ばす。  強張っていた手が、温かさにほぐれてきた。  お湯が浴槽の外に溢れ出しても、壱流はしばらく降り注ぐシャワーの単調な感覚に身を委ねた。 「歌いたいな……」  ぽつんと言った声が、浴室に響いた。  しばらく、歌っていなかった。  ぽちゃんと顔の半分までお湯に沈み、また目を瞑った。

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