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第16話 蜜月

 何度か実家に戻り、思いっきり音を出せる場所を借りて竜司のギターに合わせて歌った。相変わらず彼の記憶は戻らないままだったが、出す音に揺らぎはなく、以前と変わりがなかった。  歌っている壱流を見て竜司は面白そうに、「そういう顔のがいい」と笑った。  このところ悩み事が多くて、自然と表情もトーンダウンしていたのかもしれない。こんなことではいけない。  久々に会った父は、「おまえの部屋は今物置と化しているから、しばらく帰ってくるな」と壱流をあっさり一蹴したが、それは別に憎くて言っているわけではなくて、好きにしろという意味だった。  壱流に帰ってくる意思がないことを、何も言わなくても気づいている。  帰って来いだのなんだの言われなかったのは、煩わしくなくてほっとした。これが壱流でなく亜樹乃だったら、早く帰ってくるようにせっついただろう。娘が可愛くて仕方がない父だ。  しかし何も言われなかったのでしばらく気づかなかったが、昨日バイト帰りに預金を引き出しに銀行に行ったら、何故か父から30万振り込まれていたのでびっくりした。電話で聞いたら、「ちゃんと食え」とそれだけ言われて、切られた。 (まあ、毎晩結構、激しいから……)  摂取カロリーより運動量が上回っているのかもしれない。しかしそんなことを父には言えないし、今は壱流しか稼いでいないので、実際金銭的に潤っているとは言えない。正直ありがたかった。  竜司に、記憶がないのと自分に欲情すること以外に問題はない。けれどやはりまだ不安で、働けなどと催促は出来なかった。  ずっと一緒にいられる仕事があればいいんだけど、出来れば竜司の得意なことで生活出来たら、と考え抜いた末、駄目もとで先日スタジオで録ってもらった自分達の曲をいくつかのプロダクションに送ってみた。だが生憎まだどこからも、リアクションはない。  そんなに上手く行くとも思っていなかった壱流は、まあ焦っても仕方ないとバイトに行っては適当に稼ぎつつ、知り合いのバンドと一緒にライブに出たりの生活を送っていた。  しばらく留守にしていたとは言え地元だ。自分達を知っている人間は結構いる。こちらに戻ってきてからZIONという名前でステージに立ったのは初めてだったが、客は受け入れてくれた。  やはりライブは楽しい。竜司のギターが自分のすぐ近くにあるのは、壱流を安心させる。二人だけの部屋で蜜月のような時間を過ごすより、歌っていた方が楽しい。 (……蜜月)  新婚か、と壱流は苦笑いを浮かべた。  無理矢理自分の心を捻じ曲げて、竜司に抱かれるのを肯定した。好きだ愛してると繰り返す男に、自然に笑って受け入れることが出来るようになった。  自分も竜司を好きなのだと、思おうとしていた。初めて寝てから一ヶ月ほど経過し12月になり、なんとか自分を誤魔化すことにも成功した。  毎晩のように抱かれ、嫌でも体は慣らされた。 (慣れって怖い)  最初は痛くて苦しいだけだったのが、随分と悦くなってきた自分の体の反応に、感嘆を覚える。  壁が薄いから、声を殺すのに必死だ。隣の部屋にはやはり自分達と同じ年頃の男が住んでいる。壱流の妙な声が聞こえたら、まずい。だがもしかしたら、聞こえているかもしれない。 (だって竜司、すごいんだ……)  声なんか出すつもりは毛頭ないのに、押し殺している壱流の姿に燃えるのかなんなのか、やたらに頑張ってくれる。相手にするこちらの身にもなってほしい。 「どうした壱流」  聞こえてるかも、なんて玄関先で恥ずかしくなって口元を押さえた壱流に、部屋で待っていた竜司が声をかけた。  今日も夜8時から、ライブハウスに出る予定になっている。だからバイトは5時で切り上げて、さっさと戻ってきた。  竜司の待つ部屋。1Kの、狭いアパート。お互いが視界に入らないのは風呂かトイレにいる時くらいのもので、傍目から見たらさぞかし窮屈な生活だろう。その狭い部屋の中で、まだコートを脱いでいなかった壱流を竜司がむぎゅうと抱き締めた。  どきん、とする。 「……なんでもない」 「そうか? なんか顔赤いけど」  顔を覗き込まれ、じっと表情を窺う竜司の髪もだいぶ伸びてきた。以前のように赤く染め直し、髪に隠れ傷もあまり目立たない。普通にしていれば、以前の竜司と変わりない。  だけど違う。今の竜司は友達だった竜司ではない。  記憶は、もうずっと戻らないのかもしれない。 (前までいた竜司は、)  ……どこに、行ってしまったのだろう。  人間の記憶なんて、こんなにも不確かなものなのか。  それとも竜司の体のどこかで、目覚めることが出来ずただ眠っているだけなのか。  心はどこにあるのだろう。  頭蓋骨に包まれた脳の中か。それとも、もっと違う場所にあるのか。 (手が届かない)  心臓がぎゅっと締め付けられた。  じっとしていた壱流の服の中に、手が入ってきた。以前ならこんなこと行動パターンになかったが、一度関係が変わってしまってからは、普通に壱流の体を触り倒すようになり、それにもだいぶ慣れてきた。部屋の中にいた竜司の手は、温かい。 「壱流、心臓早い」  首筋を甘噛みされ、喉元から顎、唇と順にキスされる。  竜司のキスは、結構優しい。相手の意図に気づいたが、こんなことをしている時間などなかった。 「駄目だよ。今日は忙しい。ほら、メシ食いに行こ」  軽く拒否した言葉に竜司はにやりと笑い、服の中にいた手がジーンズのジッパーに移った。ゆっくりと前を開けて、薄い下着越しに指が触れる。 「りゅ、竜司……」 「ちょっとだけ」 「駄目だって。ライブ終わってからに……やだ、やっ」  体を突き放そうとするのを制し、玄関先で下着の中から壱流を取り出すと、竜司の大きな手が微妙な力加減で動き出した。直接触れた手の感触にびくんと反応し、抗議の声が途切れる。 「勃ってきた」 「……報告、しなくていい。わかってるよ」 「壱流のやらしい顔が見たいんだ」  身を屈めた竜司の顔がそこに近づいて、腰からジーンズを下着ごと引きずり下ろす。 「やめ……竜ちゃん、メシ……っ」  力が抜けて、がたん、と玄関のドアに背を預ける。そういやまだ鍵締めてなかった、と理性が告げて、壱流は後ろ手にドアノブを握り鍵をかけた。

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