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第18話 馴れ馴れしい女
「ストップ!」
出番が終わったあと楽屋に引き上げようとしていたら、ふと女の声に引き止められた。いきなりストップとか言われてもな、と思いながら壱流は振り向いた。しかし竜司はそのまますたすたと歩いていってしまう。先に帰ることはないだろうから、壱流はとりあえず追うのをやめた。
知らない人ばかりなので、極力周囲と関わらないようにしているらしかった。竜司はけして人見知りなタイプではなかったが、昔の知り合いが話しかけてきても上手く話を続けることが出来ない。仕方のないことだが良くない傾向だ、と壱流は思っている。このままでは引きこもりのニートになってしまう。
壱流だけを求め、ギターを弾くだけの男になってしまう。
そんなのは竜司には似合わない。
知り合いの写真でも撮らせてもらって、簡単にどんな人間だったのかをまとめてやった方が良いかもしれない。それを見ていれば、思い出すかもしれないし。
結局懐には、断片的なことだけ話した。事情があって今竜司には過去の記憶がない、と教えたら、懐は胡乱そうな顔をしてしばらく考え込んでいたが、真面目な壱流の態度に「あんま抱え込もうとかすんなよ」と呟いた。
抱え込もうとしている、……わけではない。
ただ壱流は、元の竜司に帰ってきて欲しいだけだった。
「あたしのこと、覚えてる?」
背後でストップと言った女は、振り向いた壱流の顔を見てにっこりと笑みを浮かべた。セミロングの淡い色の髪にゆるいカールのかかった、自分よりいくつか年上の女。暖かそうなコートの上からでも、そのスタイルの良さはすぐにわかった。
……。
覚えてる? と言われても……としばし考えたが、やがて記憶の片隅にあったその顔をぼんやりと思い出し、目を見開く。
「……覚えてるけど?」
「良かった! ……ああもう、ギターの子行っちゃったし。三人で話したいんだけど、時間どうかなあ」
馴れ馴れしい女の態度に、壱流の眉が微妙に寄る。勿論女を嫌いなわけではない。竜司のことがなければ、ライブのあとなんかにはよく観客の女の子と食事やらラブホやらに行ったりもしていた。しかしこの女はその類ではない。顔に見覚えがある。どうにも素直に対応することが出来ない、そういう相手だ。
「なんの話? それにもよる」
「まずはお詫び。それと、仕事の話」
「……はい?」
不機嫌な顔になって立ち尽くしている壱流にすばやく歩み寄った女は、一枚の名刺を差し出した。壱流が先日曲を送った何社かのうちの、一社。そこに女の名前が書かれていた。
「西野まひる……」
小さく、名前を口にしてみる。名刺に目を落としている壱流に、まひるは媚びたような笑みを大げさに浮かべた。
「さっさと連絡しようかとも思ったんだけど、やっぱりもう一度生で聴いてからにしようってことになって。ライブの情報掴んだから、このとおり参上しました」
「そう……そういう素性の人だったんだ。仕事って、もしかして俺たちのこと買いに来てくれた?」
「そうよ。S市で初めて観た時も、いいなーって思ってたんだけど、あんなことになっちゃったから……その、ほんとごめんなさい」
まひるはぺこりと頭を下げた。その頭上に、壱流の冷ややかな視線が注がれる。
S市という地名に、名刺を持つ指先が、じわりと汗ばんだ。
「あんたの彼氏、まだ檻ん中でしょ」
「彼氏とかじゃないんだ。そこだけははっきりと言っておきたいんだけど、あれはたまたま違うバンドを視察に行った現場でナンパされて、一緒にいただけの話で。あたしも変な男に捕まっちゃったなって、反省してる。でもまあ、結果的にあたしも絡んでるわけで、一応お詫び」
「あそう……」
ぎり、と奥歯を噛み締める。
そういう事情なら、彼女に対して怒りを抱くのは筋違いかもしれない。理性はそう告げる。しかし感情は複雑だ。
目の前にいる女は、竜司の頭を割った男が連れていた女だ。些細なことが原因で、竜司はあんな大怪我を追い、記憶まで失った。
あの時男は捕まったが、この女はいつのまにか雲隠れしていた。しかしすぐ傍にいたこの顔は、確かに覚えている。
どうしようもない苛立ちが生まれ、壱流は黙り込んだ。今こちらから何かをしゃべったら、いらぬ言葉を吐き出してしまいそうで、嫌だった。
醜い。
この女は何もしていない。壱流を見ていただけだ。気に入ってくれたという証ではないか。それ自体に問題はない。それなのに、この感情はなんなのか。
黙り込んだその顔が歪んでいるのに気づき、まひるは困ったように笑みを消した。
「ここじゃなんだから、楽屋に入れてくれない?」
その声はどうしてか、ひどく優しく聞こえた。
見知らぬ女を連れ立って壱流が楽屋に入ってきたので、竜司は不思議そうな視線をこちらに向けた。
「……壱流?」
竜司はギターをケースにしまい、廊下で買ったコーラを飲みながら椅子に腰掛けている。壱流は無言で竜司に近づき、赤い髪に触れた。
「竜ちゃん、後ろ向いてくれる」
「あ? なんだ急に」
「いいから」
表情の固い壱流に不審な目を向けながらも、竜司は言われた通りに椅子をがたごとと動かして背を向けた。
「西野さんだっけ、ほら、これ。痛そうだろ。何針縫うって話じゃないよ。結構な大怪我だった。俺は死ぬかもって思った」
「……そう、みたいだね」
まひるも竜司にほんの少し近づいて、髪を掻き分けて露出させた傷痕を凝視した。頭部に走る裂傷に、痛そうに目を細める。
「竜ちゃん怪我の後遺症でさ、今記憶喪失なんだ」
「――壱流、おい」
「それでも俺たちのこと、買う? 責任持ってさ」
冷たい壱流の声に、まひるは黙り込む。どう答えようか迷っている感じだ。しばらく返事がないので、壱流は竜司の髪を撫でるようにして整え、「もうこっち向いていいよ」と囁いた。
再びがたがたと椅子を戻した竜司の目に、いろんな感情に揺らいでいる壱流の姿が映った。
「壱流、どうした。平気か? どこか具合悪いのか?」
「違……」
否定しようとして、言葉が途切れた。喉が詰まる感じがして、苦しくなった。
沈黙した壱流をじっと見ていた竜司の視線が、やがてまひるに移行した。
「どういう流れなんだ? これは」
ようやく竜司の意識が自分に向いたことを知ったまひるは、その視線の強さに一瞬怯んだ。
だから自分じゃなくて違う人間を寄越せば良かったのに、と考えた女の内心は、誰にも届かなかった。
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