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第21話 靄の中

 傷痕と共に消えてしまった時間。過ぎ去った俺の過去。入江竜司というこの俺を構成する記憶は、自分のものであるはずなのに今ここに存在しない。  すべてが見えない靄の中だ。見ようとしても、霧が濃すぎて見通せない。自分のことも、壱流のことも、何もかも。  着替えのシャツを放ってやっても壱流はしばらく膝を抱えたままじっとしていた。  相変わらず静かに動いている空気清浄機。血の匂いに反応しているのだろうか、と俺はどうでも良いことを考えた。  壱流の衣服についた、血の痕。  壱流の体から流れ出した、温かい体液。  俺はぼんやりとしている壱流にため息をつき、床に付着したそれをティッシュで拭き取る。 「もったいねえなあ、こんなに流血してよ」 「……少しくらい、血は入れ替えた方がいい」  ちらりと俺を見てから、座り込んでいた壱流がのろのろと立ち上がった。後ろを向いて、汚れたシャツを脱ぐ。  なんだか気まずくなってすぐに壱流から目を逸らしたら、渡された着替えを羽織り始めたので、俺の顔は自然とほっとする。 「竜司、中途半端だよ」 「なにが」 「どうせなら着替え一式渡したらいい。中まで染みてるから、全部着替えないと。気が利かない」 「ああ?」  何をわがまま言ってるのだ。少し眉を寄せた俺には構わず、壱流はクローゼットから足りないものを引っ張り出してすっかり着替えを済ませると、そのまま部屋から出てゆく。血の後始末などする気はないらしい。 「……ったく、なんなんだあいつは」  やっぱりよくわからない。  俺をモラルに欠けてるなんて言ったり、殺そうとした、なんて言ったり、急にそうかと全部を受け入れることなど出来なくて、困惑する。  それでも床についた痕は全部綺麗にして、脱ぎ散らかした血まみれのシャツを拾い上げると俺も壱流の部屋を出た。  何が本当で何が嘘なのか、俺にはわからない。  けれど壱流がついさっき自分自身の手首を切り刻み、痛いとわかっていながら血を流したのは事実だ。  俺の消え去った記憶の中で、壱流は一人でいろんなことを考え、今に至ったのだろうとは思う。忘れてしまった俺には単なる気味の悪い空白でも、壱流にとってはけして忘れることのない時間なのだろうか。  俺が、悪いんかなあ……やっぱ。 (俺が悪い)  なんとなくばつが悪くなって、ばりばりと頭を掻く。不意に傷痕に指が触れて、そこをなぞってみた。 (どうして壱流を忘れたりするのか)  こんなとこ怪我しなきゃ何も変わらなかったのに。してしまった怪我をどうこう言っても仕方ないが、やはり腑に落ちない。  何故ライブハウスでそんなことが起きたのだろう。俺は見た目と違って、それほど血の気が多い方ではない。自分から相手にふっかけたりは、よほどのことがない限りしない。売られた喧嘩だったのか。 (あんなに愛してたのに) 「ま、いいか……」  まひるの作った夕食を一人でまずそうに食べている壱流を横目で見ながら、俺は汚れ物を放り込む為に一度洗濯機の置かれた脱衣所に向かった。  洗濯機に入れようとして、止まる。 「この血、落ちんのか?」  くんくんと鼻を近づけ、血の匂いを嗅いだ。  ……。  なんだ?  何か、今変な感じがした。 (壱流の匂い)  もう一度嗅いでみる。柔らかい洗剤の匂いに混入した、鉄錆臭いそれ。別に良い匂いでもなんでもない。けれどどこか懐かしく思う。その正体を掴めないまま、やがてシャツを洗濯機の中に落とした。 (忘れてしまった記憶)  ……壱流の匂い。  壱流の体温。あの時の声。俺を見つめる吸い込まれそうな真っ黒い瞳。綺麗な笑顔。たまに見せるつらそうな顔。俺がいつ消えてしまうかと不安に歪む心。痛みを知りたくて自分へと向かう刃。  すべてが愛しいのに。  俺は忘れる。  忘れたくないのに忘れてしまう。  ずっとずっと壱流を好きでいたいのに、それが出来ない。  俺が忘れたりしなければ、  壱流は苦しんだりしないのに。  洗濯機の前でぼうっとしていたのに気づき、俺ははっと顔を上げた。 「俺……今、なんか考えてたか?」  ぶるんと頭を振って、壱流が黙々と食事をしているリビングへ戻った。しんとした食卓で、まひるももういない。食はあまり進んでおらず、ハンバーグも半分以上残っている。俺は壱流の前の席に腰を下ろすと、頬杖をついてその顔を見つめた。 「……なに」 「ちゃんと食えよ。新しい血ぃ、作れねえぞ」 「食ってる」  俺に言われて、壱流の箸がハンバーグのひと切れに伸びる。御機嫌斜めな感じは変わらないが、ひとまず素直だ。 「なあ……なんで、俺殺そうとか思ったん」  口に入れようとしていた千切りキャベツが、壱流の前で停止する。俯きがちだった視線が俺に向いて、箸が静かに置かれた。 「思ってない」 「あ? おまえがさっきそう言ったんだぜ?」 「語弊がある」  コップに満たされた緑色の野菜ジュースに口をつけ、壱流は少し考えるようにまた俺から視線を外した。  なんというか、間が持たない。  前はもっと、会話はスムーズだった気がする。やはりまだご機嫌が直っていないのだろうか。そうそうすぐに明るく振る舞われても、空元気にしか見えないが、いつまでもこうテンションが低いのは、変に気を使うので疲れる。  俺は別に怒っているわけではない。  状況が見えないまま、怒り出すのはよくない。俺は今も生きているし、話を聞いてやってからでないと的確な対応は出来ない。また手首でも切られたら困るし、そんな壱流を見たくはなかった。 「……竜司が、」  俺の名を呼び、壱流がまた止まる。もどかしい。そんなに言いにくいことなのか。  ふとまひるが、すごく嫉妬深いと壱流を表現していたことを思い出す。  もしかしてこいつとそういう関係にあった俺が、殺されるほどの嫉妬を買うような何かをしたとか? たとえば浮気。  ――いや、浮気って。  自分の考えに妙な感覚を覚えながら、色々考える。身に覚えはないが、とりあえずの大前提として、もう俺と壱流は恋人関係にあった、としよう。そしてセックス2.5回(だからなんだこの.5は)をするような夜に、殺されかける。  ……やっぱり浮気、くらいしか。  あとは、別れ話、とか。ああ似合わない。なんで俺とこいつがそんな話をしなければならないのだ。 「わかんねえ」  思わず出た本音に、壱流は小さく笑んだ。 「なんだよ?」 「口調はあんま変わんないなって。忘れてもさ」 「俺だって忘れたくて忘れたわけじゃない」  ふいと横を向いた俺に、壱流はまた少し黙ってから、小さく呟いた。 「殺してくれって言ったんだ。……竜司が」  黒い瞳が綺麗だと、なんとなく思った。

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