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第26話 黒猫

「……なんだってまた」  どうしてそんなところで物音がしたのだろうと、若干不審に思いながらクローゼットを開ける。たくさん服の下がったクローゼットは、ウォークインというわけではない。人が入るには、狭い。  そこに、壱流はいた。  端っこに座り込んで、中を覗いた俺と目が合う。暗い収納の中にいる壱流の黒い双眸が、猫のように思えた。 「何やってんだそんなとこで」  好き好んでこんな場所に入り込むなんて、本当に猫だ。呆れた声を上げた俺に、壱流はもぞもぞと動いてまた端っこに寄った。 「まだ拗ねてるわけじゃねえよな? ほら出て来いって」  半分体を入れて壱流の怪我していない方の腕を引っ張る。渋々という感じでクローゼットの中から這い出すように出てきた壱流は、どこかばつが悪そうに立ち上がった。 「なんで見つけるんだ」 「あぁん?」 「狭い場所は落ち着くんだよ」 「秘密基地じゃねーんだ。そんなとこで寝る気だったのか?」  ガキか。  まひるのところで大人しく寝ていたら良かったのに、なんだって戻ってきたのだろうか。 「なんつーの、ほら。エコノミークラス症候群とかになるぜ? 寝るんならちゃんと脚伸ばして、体休ませねえと。……って、ここベッドないけどよ。まひるさんとこで寝るんじゃなかったのか?」 「寝てきた」  ……寝るって、そっちかよ。さっき凹んで萎えたとか言ってたから、改めて仕切り直したのだろうか。そしてやることやったら戻ってきたってか。なんだかこう、即物的な……。  壱流は余計なことを考えている俺から顔を背け、クローゼットの中に仕舞いこんであった掛け布団を引っ張り出すと、それにくるんとくるまった。敷布団も枕もなくいきなりフローリングに直寝され、俺は戸惑う。 「いや、それ痛ぇだろ」  もしかして、俺の部屋に置いてあるベッドに来て良いと言ってほしいのだろうか。困った奴だと思いながらも、仕方なく招いてやることにする。布団を引っぺがし、無理矢理立たせる。 「眠るだけなら、一緒に寝てもいーぜ? 昨日まではそうしてたんだろ?」 「……うん、まあ」  ちら、と俺を見た壱流は、握っていた布団から手を放し、小さく頷く。  まひるのところで性欲を満たしてきたのであれば、俺とそういう展開になったりもしないだろう。置いてあるベッドは、図体のでかい俺一人寝そべっても、結構スペースが余るサイズだった。壱流がいても、そう窮屈ではない。  掛け布団を床に放置したまま、壱流は俺のあとをついてきた。  少しばかり緊張したのは、どうしてだろう。  さっき過去の俺の記憶を目の当たりにしたからだろうか。  壱流を、抱いた俺。  こいつのことを心底好きだった、俺の記憶。  ……すごく、一途に愛してた。  部屋に戻ると、既にさっき流していたDVDは止まっていた。俺はパソコンの電源と部屋の照明を落とし、ベッドに潜り込んだ。壱流は少し躊躇するように足を止めたが、すぐに着ていた服を脱いで俺の隣に入ってきた。  うすっぺらい体型のわりに、以前より腹筋のラインが綺麗に出来ている。 「ちったぁ鍛えたのか?」 「いや……そんなには。ただ歌う時とか、腹に力入れてるんで」 「……おまえ、巧くなったよな」  素直な俺の感想に、寝そべってすぐ傍にある壱流の顔が嬉しそうな笑みの形に変わる。 「竜ちゃんに釣り合うようにさ」 「はあ? 何言ってんだか」  まるで成長しない俺の技術に若干辟易していたところだったのに、こんな言い方されるとは思わなかった。不審な顔をした俺には構わず、壱流はもぞりと布団の中で動いて、少し俺から距離を取った。  くっつかないように、気をつけているのだろうか。 「落ちるぞ」 「……嫌かなあ、と思って」  一応配慮しているのか。しかし別に少しくらいくっついたところで嫌なわけではなかった。別に他意もなく、落ちそうに端に寄った壱流の体を引き寄せる。大人しく引き寄せられた体は、微妙に強張っていた。  ……もしかして嫌なのは、こいつなんじゃないのかって思ってしまった。  壱流の嫌がることなんてする気はまるでないのに、何をこんなに硬くなっているのか。迫られるのならまだわかるが、なんだか拒まれている気がして、変な気持ちになる。  何がしたいんだ、まったく。俺は軽くため息をついて、ごろんと壱流に背を見せた。 「……おやすみ、竜司」  壱流の静かな声が、聞こえた。  俺はすぐに、眠りに落ちた。目が冴えていたはずなのに、やけにすんなりと眠ることが出来たのはどうしてだったか。  壱流の気配が安心する。  壱流の匂い。  壱流の感触。  壱流の体温。  知っている誰よりも深い黒をした瞳の奥にある、いびつな心を愛してる。俺が壱流をこんなふうにした。  わざとか。  壊れてゆく壱流を見ているのが、好きだったのか。  ……違う。そんな不穏な気持ちで壱流の傍にいたわけではない。ただ、俺といることで壱流の心が翻弄されるのは事実だった。それでも離れることは出来ない。  触れていたい。  抱き締めていたい。  俺に脚を開かせて、温かい体の中を貪っていたいのだ。抱かれてる時の壱流の体の反応は実に素直だ。心が捉えきれなくても、その反応を感じることが出来れ ば、たとえ一時でも満足した気分になれる。  壱流が俺を好きだとか嫌いだとか、そんなことはどうでも良い。壱流が俺をどう思っていようとも、俺は今の俺を生きる。 (本当は好きじゃないのかもしれない)  幾分無理をして壱流の意思を捻じ曲げた自覚はある。  それでも俺は壱流を抱くし、好きだと繰り返す。  明日には俺は消えてしまうかもしれない。  壱流のことを忘れてしまうかもしれない。  それは、ただ死ぬよりも恐怖を感じる。  本当はあの時、この命を終えていれば良かったのだ。  8月のあの夜。  壱流をかばって死ねたら、本望だったのに。その時は悲しむかもしれない。苦しむかもしれない。それでも長く長く続いたりはしない。いつかは思い出に変わる。  俺が生きていることで、壱流がこんなに何度も辛い思いをする。だからその手で俺の時間を止めてくれ。  止めてくれていいんだ。  ――眠りの中で俺は、よくわからないことを考えていた。

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