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第28話 安堵
眠ってしまった竜司の背中を見つめながら、壱流は嫌な過去をまた思い出していた。
まひるが最初のリストカットの理由など聞くから悪い。思い出さないようにしていたのに。あのバーにはあれきり行っていない。またあの男に会ってしまうのが嫌だったから。
無性に一人でいたくなって、クローゼットの中に入った。誰もいない暗くて狭い場所。そこは何故か落ち着く。
誰にも触れない。
誰にも触れさせない。
自分だけの密室。密室と呼ぶにはあまりにお粗末な場所ではあるが、それでも揺らいでいる心を落ち着かせるには適切だった。
(結構あっさり見つかっちゃったけど)
とっくに寝ていると思ったのに、どうして竜司は見つけてしまうのだろう。腕を引かれたら竜司のところへ行ってしまうのに。
同じベッドで寝るのは辛い。それでも来いと言われるなら、そこで眠る。
(3Pはまずかったか……)
ふと自分のやらかした失態を振り返り、顔を歪める。
あれが初めてではなかった。まひるも嫌がるというよりむしろ楽しんで参加してくれる。まひるは結構奔放だ。多分、壱流以外の男とも寝ている。そんな気がする。
自分が、まひるに対して冷たいと感じることがある。
躊躇いもなく竜司に奉仕するまひるに、嫉妬を覚えている。
本当は竜司のことを好きなのではないかと感じることもある。別に自分を好きでいろなんて思ったりはしない。結婚しているとは言え、自分達はそういう間柄ではない。
くだらない。
まひるが言ったように、挿れていいのは壱流にだけ、なんて馬鹿げた独占欲があるのだろうか。わからない。
もし竜司に誰か恋人が出来たら、壱流は激しい嫉妬に駆られるだろうか。わからない。
けれどまひるの口以外を許す気はなかった。我慢出来ない。
(すごい嫉妬深い……か)
当たっているのかもしれない。
ならばあんなこと最初から提案する壱流がおかしい。そうも思う。
けれど、当の竜司が壱流をそういう目で見れないし、直接出来ないなら、せめてまひるを介してしたかったのだ。それだけだった。
(俺、乱れてるのかな……考え方)
もうああいうことはしない方が良い。竜司が嫌がることをしたかったわけではなかった。
壱流は自己嫌悪のため息をついた。
じっと見つめていた背中が寝返りを打ち、竜司の顔がこちらを向いた。傍にある壱流の体にその指先が触れ、そのままぐいと抱き寄せられる。
どきんとする。
記憶はないのに、昨日までの習慣が体に染み付いているのか。毎晩のように壱流を抱いてた腕。眠っている竜司に、何の思惑もない。それなのに壱流は心臓が早くなる。
(すげぇ、一人よがり)
振りほどくことが出来ない。
竜司の鼓動がすぐ傍で聞こえる。温かい腕の感触。逞しい、綺麗な筋肉のついた腕。
この腕に、何度抱かれたことだろう。数え切れない。せめて眠っている時くらい、壱流のものであっても許してくれるだろうか。
自分からくっついたわけではないのだからと言い訳をして、壱流は目を閉じた。
朝なんて来なくても良い。
ずっとこのままで良い。
刹那主義は消えてしまった竜司ではなくて、もしかしたら自分なのではないかと、ぼんやり思った。
初めて手首を切った時の感触。
心臓を経由して体中の血管を巡るはずだった血液が、外に溢れ出した時の苦痛。
死にたいなんて思ったことはなかったのに、つまらないきっかけで妙な衝動に駆られた。自分は存外弱い人間なのだと気づいた瞬間。
見つけてくれたのは竜司だった。あのまま朝まで放置されていたら、運が悪ければ本当に死んでいたかもしれない。
死んだら確かに苦しみからは解放されるだろう。けれど、竜司を一人、残してゆくことになる。
見つけてくれて良かった。
死ななくて良かった。
そう思ったのは本当なのに、その後何度も繰り返し自分の手首を切った。精神的に追い詰められるとリストカットに走る、悪い癖がついた。
痛いのは好きじゃない。
けれど竜司がかつて感じた痛みを少しでも理解出来るかと思うと、切らずにはいられなくなる。彼自身はもう忘れている痛み。それを知りたくて刃を向ける。
竜司を残してはゆけないから、死なない程度に加減するのは忘れない。少しばかり皮膚を切り裂いて、血を流す。
そうすると、ほんの少し安堵する。
おかしいのかもしれないと、思う。
健全な精神状態ではないのかもしれないと。
どうしてこんなふうになってしまったのだろう。もっと強くなりたいのに、その方法がわからない。
四度目の竜司が、どうにも様子のおかしい壱流に理由を問い質して、三度目の竜司との関係を話すに至った。その後そういう意味で好きなわけではないのに、壱流のことを抱いてくれた。
(竜司は結構、優しい)
最初はかなり無理をしたはずだ。
あの時の竜司は友達だったし、性的にもヘテロだった。
同情からなのか、とも思ったが抗えない自分も知っていた。竜司がそうすると選んだのなら、大人しく抱かれた。
一度寝てしまうと、次第に竜司の意識も変化してくる。かつて竜司自身が開拓した壱流の体に徐々にはまる。
好きだなんて言われたことはない。ベッド以外での竜司の態度は以前と変わりなかったし、その無変化は意外と心が楽だった。
体を重ねる時だけ、壱流を好きなのかもしれない、と感じる。
竜司にとって壱流が、使い心地の良い単なる夜のおもちゃだったとしても良かった。他の誰かにこんな扱いをされるのは屈辱でしかないが、竜司だから受け入れた。
血を流すより、ずっと安堵した。
(依存してるのは俺の方だ)
こんなにも竜司を必要としている自分を再認識してしまった。壱流がいないと竜司が困る、のではない。逆だ。竜司がいないと、壱流がまともに生きてゆけない。
どうしようもない。
こんな関係望んだはずではなかったのに、どうしてこんなことになったのだろう。
一緒に音楽作っていけたら、それで良かった。なのにそれ以外でも竜司を強く求めている。それでも歌っている時は忘れることが出来た。
だから壱流はずっと歌う。
この喉が涸れるまで。
「――壱流」
ふと、竜司の声が耳元で聞こえた。
うっすらと目を開けると、竜司が闇の中で目を開けていた。抱き締めた腕はそのままで、壱流のことをじっと穏やかに見つめている。
「忘れても俺は、壱流がずっと好きだ」
「……りゅ」
「好きで仕方ないのに」
顔を近づけて、壱流に軽く触れた温かい唇。舌先が壱流の唇を割って入ってきた。優しく絡んだ感触。時間にすればほんの短い間、口の中を愛撫されて、またどきんとする。
(誰……?)
「ごめんな」
それだけ言って、竜司はまたすぐに眠りに落ちた。
今目覚めた竜司が誰であるのか、壱流にはよくわからなかった。
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