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第34話 真冬

 その後も何度か、俺は記憶をなくした。初めて記憶をなくしてから何度目だろう。俺は今、29になっているはずだ。  今は冬だ。  12月の、寒い季節。俺の知らないうちに季節は廻り、自然と年を重ねる。  記憶喪失が直ることはなくて、相変わらずもどかしい作業を続けたりしながら、音楽を作っている。  幸いと言うべきか、俺のこういう状態は、どこにもばれていない。壱流とまひるの努力の賜物だろう。けれど、いっそばれてしまった方が壱流も楽なのではないか、とも思う。  壱流は違う俺と出会い、またしても感情を振り回されて手首には新しい傷が増えていた。  記憶のかけらは少しは役に立ったのだろうか、と疑問に思う。けれど今俺は過去を受け入れ、壱流の傍にいる。一応ものの役には、立っているのだろう。  たまに、過去の出来事を何かの拍子に思い出すことがある。  きっかけは、匂いだったり、温度だったり、感触だったり、会話の端々だったり色々だ。それでも完全に思い出すことは出来ない。霧の中にいるような、薄ぼんやりとした頼りない世界。  俺の日常を、壱流と一緒に映像に残すようになったのは、壱流に過去の俺の記憶を見せた頃からだ。折を見てずっと他愛もない日常を撮っている。写真も沢山撮るようになった。  俺はそれを見て、過去を補完する。  白い壁には、俺の記憶のかけらがたくさんピンで押し留められている。もし目覚めた時に忘れていても、すぐにきっかけを掴めるように。  壱流に誰だなんて聞かなくてもわかるように。その言葉が壱流にとってどれだけ怖いものであるのか、俺には計り知れない。  忘れたくはない。覚えていたい。  自分のことなのに、どうしようもない。だからせめて努力をする。過去を繰り返し見て、思い出した気になる。  そうすることによって、少しばかり大人びた壱流に出会っても、違和感をそんなに持たなくて済む。思い出を未来へ持ってゆくことが出来ない俺の、大切な記録。    壱流は血を流す。  痛みに依存して生きてゆく。  壱流を盲愛する俺と、友達だか恋人だかわからない微妙な立場にある俺。  壱流がどちらの俺を必要としているのかはわからない。それでも俺のギターと体を必要としているのは確かだ。  壱流は俺を好きだとは言わない。  それでも体を重ねている時はあいつの心に少しだけ、触れられる気がする。  それと、歌っている時。  年月と共に歪んでゆくあいつの心が、俺のギターに絡み合う。壱流の視線はふとした瞬間恐ろしく病むことがある。けれど精神の歪みと反比例するかのように、あいつは同性から見てもどきりとするほど、際立って良い男になった。  初めて出会った高校生の時とは比べ物にならないくらい、凄いボーカリストになった。  それが良いことなのだと、手放しで喜んだりは出来ない。壱流の心はとても脆い。元々そんなにやわな奴ではなかったはずだが、どんなに強固なものでも、少しずつひびが入ってゆけば、いずれは壊れる。  完全に壊れているわけではない。  普通に生活するし、楽しそうに笑ったりもする。それでも時折手首を切って、血を流す。  そうすると落ち着くと言った。  痛いのは生きているのが実感出来るのだと。  死にたいわけではないのは、知っている。あいつは生きて、俺の出す音と一緒に歌っていたいのだ。それがなくなったら、きっと壱流は完全に、壊れる。  痛々しいあいつを見ているのは、辛い。だから俺は壱流の為にギターを弾く。勿論それはこの俺の生きる術でもある。記憶を保存出来ない俺が唯一自信を持てる、大切な生きる術。どれだけ忘れても、ギターだけは忘れなかったから。  ギターを手に曲を作りながら、顔をしかめて考え込んでいたら、いつの間にか俺の膝に小さな手が触れているのに気づいた。 「どうした、まふゆ」  でかい俺を見上げる小さな小さな体は、膝を枕にするようにころんと転がった。 「りゅーちゃん、あそぼ」  壱流に似た黒い瞳が印象的な、可愛らしい女の子。もうすぐ3歳になる壱流の子供。  先ほどまひるの作った夕食を一緒に摂って、そのあとリビングでブロックなんか弄くっていたと思ったのだが、ドアを開けっ放しでギターを弾いていたので、いつ入ってきたのかわからなかった。  まひるはやはり一緒に住むことはなくて、普段この子と二人で隣の部屋に暮らしている。だが父親である壱流がいるこの部屋にも毎日やってくる。俺にもよく、なついている。どっちが父親だかわからないくらいだ。  父親になっても、壱流は変わらず俺と寝る。  子供が欲しくて作ったんだろうに、もうちょっと自覚が出ても良いのではないか。可愛いと思っているのは見ていればわかる。  だがそういう問題ではない。普通の父親像とは、かけ離れている。……しかしそれを壱流に強要するのは難しかった。  今は別に目立った問題はない。けれど、まふゆがもっと大きくなった時、どう思うか。それが問題だ。 「壱流はどうした?」 「んー?」  まふゆは俺の膝でころころと遊びながら、爪を噛むようにして何かを考えている。噛んでいる指を口から外させて、ギターを脇に置くとその小さな体を抱き上げた。 「爪噛んでるとなあ、歯並び悪くなるってよ?」 「いちる、いなーい」 「いないってこたねえだろ。またヘッドフォンでもつけて作業してんじゃねえの」  どれどれ、とまふゆを抱っこしたまま部屋を出る。肩車してやると喜ぶのだが、俺の背が無駄にでかい為、鴨居にぶつかる可能性が大だ。直立している時はやらないのが無難だった。 「壱流ー? 入るぞ」  何度ノックしても反応がなかったので勝手に入ると、案の定壱流はヘッドフォンをつけてテーブルに肘を突き、ノートパソコンに向かっていた。多分俺の曲を聴きながら歌詞を練っているのだろう。集中すると、多少のことでは反応しなくなる。 「ほらな、いるだろ」 「いたー」  ようやく俺たちの気配に気づいた壱流が、ヘッドフォンを外してこちらを見た。まふゆを床に下ろしてやると、壱流のところへ走っていってまとわりついた。  くっついてきたまふゆの額にちゅうとキスをして、さらさらの髪を撫でている壱流。  これだけ見ると、娘を溺愛している普通の父親にも見える。  けれど、けして一緒に住んだりはしない。生活に困らないように金銭的なことはちゃんとしているみたいだが、まふゆは寂しくはないのだろうか。変な家庭環境で育って大丈夫だろうか、と他人事ながらも心配だ。  まふゆと戯れている壱流の傍に腰を下ろし、パソコンの画面を覗き込む。十数行の歌詞が出来ていた。退廃的なラブソングなんか書いている。  誰を想って書くのだろう。俺だったら嬉しい気もするが、それはまひるかもしれないし、あるいは架空の女かもしれない。 「――あ、竜司。まだ見るな」  俺の視線の先に気づいた壱流が、慌ててノートパソコンの画面をぱたんと閉じた。 「別にいーじゃねえか」 「書き途中だから駄目だ」 「いーじゃねえか」  まふゆが俺の言葉を真似したので、壱流が思いっきり眉をしかめた。女の子が使う言葉ではない。俺の影響を受けて育ったら、外見は本当に可愛らしいのに台無しだ。壱流は俺を非難するように見て、ため息をついた。 「まふゆ、竜司になついてるよな」 「なんだ悔しいのか」 「竜ちゃんも、子供欲しかったりする? 誰かと結婚したいか?」 「――は?」  いきなり聞かれて、俺は戸惑った。  俺が結婚どころかまともな恋愛すら出来ないことを壱流は良く知っている。相手を忘却するし、俺には壱流の傍にいるという使命がある。それに、俺は自分の血を残そうなどとは思っていなかった。  俺が残すのは、壱流が歌う為の曲。それだけで充分だ。俺がこの世にいたという証。俺が残せるただ一つのもの。  心を覗き込むようにじっと見つめている壱流の黒い目をまっすぐに見つめ返し、俺は軽く笑った。 「そうだなあ。俺はまふゆと結婚しようかな。なあまふゆ。俺のこと好きだよなあ?」 「うん、りゅーちゃんすき」 「大きくなったらりゅーちゃんと結婚してくれるか?」 「んー?」  結婚の意味も恐らくわかっていないだろうまふゆを壱流から取り上げながら冗談を言った俺に、壱流は本気で顔を歪めた。 「何言ってんだ竜司! ロリコンか!?」 「……マジに取るなよ」  なんだかおかしくなって、思わず噴き出す。まふゆを俺に取られると思ったのか、俺をまふゆに取られると思ったのかはわからないが、こんな軽い冗談に怒るなんて可愛らしい。 「大体竜司のアレはでかすぎてまふゆには入らない」 「……なに突飛なことほざいてやがる」  ちょっと呆れる。小さな子相手に何を想像しているのだ。話がピンポイントすぎる。そのでかいのを狭いとこに受け入れてる自分はどうなのだ。  壱流は俺からそっぽを向いて、またパソコンの画面を開いた。結構すぐに拗ねる。ヘッドフォンをつけようとしたその手を掴み、耳の傍に顔を近づけた。 「俺にはおまえがいるから、いいや」  まふゆに聞こえないくらいの声で言った俺に、壱流がびっくりしたような顔を向けた。  数秒黙り込んでいたが、やがてまふゆを取り返すと、小さな体を抱き締めたまま、俺の唇に軽く触れるだけのキスをした。  ベッド以外で、こんなことをされるのは稀だった。 「……まふゆ、子供はもう寝る時間だよ」  壱流が小さな頭を優しく撫でて、その腕を解いた。  最近は、壱流の手首に新しい傷は出来ていない。比較的精神は安定している。まふゆの存在は壱流の安定に繋がっている気がする。  それでも古傷が何本も残った手首を見るにつけ、俺は心を締め付けられる。  心と体に傷を増やしながら、それでも壱流は俺の傍にいる。傷が増えるのを知りながら、それでも俺は壱流の傍にいる。  またいつか俺は忘れてしまうのだろう。  今考えているすべてのことを。今日話したことも、壱流を好きだと思う気持ちも、濃い霧の中へ隠れてしまう。  いっそ死んだら楽になる。そう思うこともあるが、俺は今の俺を生きるしかない。  また傷つけるかもしれない。お互いが理解出来なくて摩擦が生じるかもしれない。  だがそれは記憶があっても起こり得る現象だ。先のことはまるで見えないが、それは俺でなくても同じだった。  生きてきたすべてのことを覚えている人間はいない。  人は忘れる生き物だ。俺はそれが他の人間よりも顕著というだけの話。  俺はこれからも、壱流の為にギターを弾いて一緒に音楽を作り出してゆく。記憶があろうがなかろうが、俺はギタリストでしかない。他の何かには、なれない。 「竜司、一緒に風呂、入んない?」  抱き締めたくなって伸ばした俺の手をすり抜け、再びパソコンを閉じて立ち上がった壱流は、返事を待たずに部屋を静かに出ていった。宙を掴んだ手を下ろし、俺は冷たいんだか誘ってるんだかわからないその背中を目で追う。  壱流の心はよく見えない。  不透明な水の奥深く沈んで、浮かぶことがない。  ふと窒息しそうな感覚に囚われて、俺は何度か深呼吸した。    終 ※次回番外編。数年後のお話。

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