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第1話
「皐月、今度一緒にどこか行かない…?」
それはボストンに引っ越してから三ヶ月ほど経った頃だ。
外科医でボストンの総合病院に勤務する浅黒い肌で父親がイギリス人、母がスペイン人のハーフの菫 蒼 は世界一愛しい恋人である倉本 皐月 の髪を優しく撫でた。
せっかくボストンに二人で暮らし始めたのに、蒼は論文、学会、当直など慌ただしい1日を送っていた。その間、皐月はただ駄文を連ねて小説を書いているといつもボヤいている。日本にいる編集担当へその駄文を送りつけては駄目だしを食らって、何冊かの本を出版し、ベストセラーではないが根強い人気を保っていた。
本人は大して面白くないよといつも謙遜しているが、内容はよく考えられて書かれて、実は全て本棚に隠し揃えている。恐らく本人に知られると、捨てられそうなので今は黙っている。
皐月とは3回別れ、色々あったのち、また付き合い直して、ボストンで同棲をしている。
親友である小説家の弘前 満 に紹介してもらった皐月は一目惚れだった。
儚げで、笑うとその笑顔に惹かれて、人生で初めてすぐに恋に落ちた。初めて出会った頃、皐月は桐生 楓 という恋人と付き合っており、桐生のマンションが自分のマンションと近いせいか、桐生を待つ皐月をみかけた。珈琲を飲みながら、一人頬を赤らめて待つ皐月は可愛らしく自分も同じように思われたいと見かける度に思った。
そしてある日を境に皐月の姿は見かけなくなり、札幌に学会に出向いた際に再会した。初めは寒い札幌なんて行くのも嫌だった。しかもそれは後輩の黒木の代わりでもあり、私用でいけない黒木の代理出席としてしょうがなく、後ろ向きな気持ちで飛行機に搭乗したのを覚えている。
札幌に到着し、何気なく入った喫茶で皐月を見かけたとき、夢だと思った。
ずっと逢いたくて、運命だとすら思ってしまったぐらいだ。
珈琲を飲んで仕事をしている皐月を見て、抱き締めてしまいそうだった。
皐月は驚いて、そして何故か自分を警戒していたような気がしたが、人見知りなんだと思い、皐月がいると思うと嬉しくなり、何度も札幌へ足を運び、逢っては珈琲を飲んで、話して信用を掴むのに必死だった。そして逢う度に皐月に触れたくなった。
皐月の白く透き通った肌に触れたい。
逢う度に他の誰かに取られる前に抱いて、皐月の肌へ自分の痕を残したくて堪らなかった。
そして天候が悪い日をわざと有給を取り、フライトが飛ばない事を確認して、ホテルがどこも満室だと伝え、皐月のアパートへ泊ろうと考えた。幸いにも天候は予想通り悪化し、フライトも全滅し、深々と降り落ちる雪の中、皐月は自分のアパートへ案内してくれた。
勿論、断られたらそこで、皐月を諦めようと思っていた。
部屋に着いても、やはり皐月は自分を警戒しているのか、ある一定の距離を感じた。
気のせいだと思い、濡れた服のまま、逃げようとする皐月を引き留めて、想いを伝え、勢いで抱いた。
皐月の躰は酷く卑猥で敏感に感じては、虜になりそうなくらい素敵だった。
この躰を前の恋人が抱いていたのかと思うと嫉妬する度に、何度も皐月を抱いてしまった。
それでもどこか影のある皐月が気になり、前の恋人の桐生を引きづっているのかとずっと思っていた。初めは自分を利用して乗り越えて貰えればと思うが、引き際の良さと物分かりの良さのせいで段々と皐月が不憫になり、皐月の気持ちは一体どこにあるんだろうと不安になった。
その後色々あってやり直したが、皐月の昔の恋人である黒瀬 槙 との過去がわかると耐えられなくなり、せっかくボストンまで逢いにきた皐月に冷たくし、嘘をついて避けてしまい、皐月から別れを切り出した。
皐月はいくら頭を下げて謝っても、連絡も、全て受け取ってくれず、強固として許さなかった。皐月が別れると決めたら、確実に別れを意識しなければならないのが分かり、以前よりも大切に、そして慎重に愛している。
しかしながら、過去のしがらみから脱却し、出来るだけ会話を増やしながらもお互いの関係を深めていこうというのに、最近は忙しくて夜しか逢えず、毎日互いの躰を求め合ってばかりいた。
そんな事を考え、この可愛らしくて愛しい恋人にいつかプロボーズをしたいと思っていた。
休日、観光を兼ねてぶらぶらとせめて指輪を見に行きたい。
指輪が苦手な皐月もそろそろ身に着けてくれるだろうと思っていた。
「え?」
皐月はびっくりしたような顔をした。
癖のある少し明るい黒髪が少し寝ぐせなのか跳ねていた。
恋人同士ならばデートをするのが当たり前なのに、最近家で過ごしていたせいか変な気分だ。
「僕の仕事の都合で、全然どこにも行ってないからさ。……だから、次の休みは街を一緒に歩いたりしながら観光しない?」
ボストンに移住して、多くの移住手続きを終え、ひと段落をした頃、運悪く自分の仕事が忙しくなり、ゆっくり過ごす時間がなかった事がどうしても心残りだった。
前回せっかく逢いに来た皐月を放っておいて、朝倉を優先してしまった事もあり、早くどこか外出しなければと自分は焦っていた。
「そうだな、うーん、大抵は観光したし。」
その言葉に蒼は驚いた顔をした。
皐月が一人でボストンを色々出歩くほど、アクティブでもない事が分かっている。
あまり社交的でもなく、いつも落ち着いて物静かに見える皐月を周囲の人はほうって置かない。
「え、観光したの?」
一瞬、頭の中で黒瀬か桐生の顔が浮かんで、嫌な予感がした。
「前に知り合ったボブと一緒に色々出かけたんだ。同じミステリー作家同士、話も趣味も合うから、取材さながら博物館や観光地を回ったり、映画みたりして大体は訪れたんだ。他に行ってない所を今度調べてみるよ。」
「………………待って、皐月。ボブって誰?」
皐月は気怠い躰を伸ばし、傍に置いていたペットボトルを手に取り、キャップを開けるとごくごくと喉を上下させた。さきほどまで沢山愛し合い、泣いて縋っては蒼の背中に爪まで立て、妖艶な醜態を晒していたのに今は平然としていた。
「蒼、友達だよ……はは、心配する必要なんてないし、今度紹介する。」
皐月はにっこりと微笑みながら、胸元に顔を寄せて寝ようとしていた。
その表情は可愛らしくて、抱き締めたくなるほど自分のツボをついていた。
蒼はもっとボブという人物について聞きたかったが、皐月を散々疲れさせてしまった手前何も言えなかった。
自分が回れなかった場所を他の男と並んで歩いてるのを想像して、蒼は不安になった。
『仕事なんだろ?………なら信用してるし、別にいいよ。』
前に朝倉の事を責められて、もう逢わないよと言うと、皐月は必要ないと窘められた、そのせいで、せっかくできた皐月の友人に会うのをやめてくれ、なんて言えなかった。
…………友達か。
蒼は胸元ですやすやと寝息を立てながら眠る皐月を見ながら、不安とまだわからぬ嫉妬を感じつつあった。その晩、ボブが真面目で地味な人間と想像して蒼は祈るように眠った。
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