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第4話

「ま、まって。二人とも待って。」 何とも言いようのない緊張感がチョコレートの香りが充満した店内の甘い雰囲気を濁し、ピリピリと対峙する二人を慌てて制した。 「ボブは皐月の新しい恋人?…………皐月、やっぱり別れたんだね。」 黒瀬は得意げに微笑んで、小さなカップを手に取り一口飲んで微笑んだ。ボブは眉を寄せて、黒瀬をまだ睨めつけてる。先ほどまでのほのぼのとした雰囲気はなくなり、どうこの場を収めようか下手な事も言えず頭を悩ませた。 「……………別れてないよ。ボブはこっちに来てから知り合ったんだ。ほら、美術館でよく会った金髪の紳士だよ」 そう言うとボブが噴き出すように笑いだした。 「………金髪の紳士?僕が?」 黒瀬の口元が緩み、悠はきょとんと顔を見上げてこちらを見ている。はっとして自分の顔が真っ赤になっていくのが分かった。 「……ちがっ……ボブも笑うなよっ!ああ、もう!」 因みに今日のボブの格好は深い紺色のポロシャツにパンツを合わせたラフな格好だ。美術館でで出会った時はジャケットやスーツを着ていたので、勝手にそう呼んでいたに過ぎない。 「え、別れてないの?仲があまりにも良いから、てっきり付き合ってるかと思ったよ。」 槇は蒼と別れていると思ってたようで、大袈裟に驚いた顔をした。 「………槇、ボブはゲイじゃない。やめてくれ。」 一応ボブには自分がゲイである事はカミングアウトしている。ボブは同じ友人も多く、気にしてないが無理矢理こちら側に引き込みたくない。因みに黒瀬はバイでどちらもいけて、現に離婚した元妻との間に悠をもうけて一人で育ててる。 「……へぇ、でも残念だな。皐月が仄かに淡い恋心を抱いて失恋の傷を癒してた、あの麗しの金髪の紳士がいるなんて。君達お似合いだから、付き合っちゃえば良いのに。」 「槇、やめろ…!」 悠もいる手前、黒瀬に変な事を言えないが、このペラペラと余計な話題を広げては話す男の口を止めたくて真っ赤になりながら口を塞ぎたくなった。 「恋心?……クロセどういう意味なんだ?」 ボブは恋心という日本語が分からず、黒瀬に説明を促す。ニコニコと爽やかな微笑みを顔面に張り付け、黒瀬は余計な蛇足まで加えてくれそうな気がして、さらに嫌な予感がした。 「あれ?………知らなかったんだ。美術館に行って見かける度に君の事を嬉しそうに報告してたよ。僕は陰ながら妬いてたくらい、よく嬉しそうに話してたよ。ま、皐月がこんなに他人に興味持つなんてないからね。」 「サツキ、僕の事気にしてくれてたの……?」 ボブは先ほどまでの不機嫌がなくなり、碧い瞳をキラキラと煌めかせながら笑みを浮かべた。 たじたじと頭を小さく下げた。 「……しかも、皐月はその時、恋人に逢いに来たのにずっと放っておかれてたんだよ。訪れたこともない、知り合いもいない土地に一人、放って置かれて、すごい可哀想でさ。てっきりあれから別れたままかと思ってた。………まぁ彼、日本に来ていたしね。」 確かに黒瀬には蒼と別れたまでは話したが、その後どうなったのかは説明していなかった。落ち込む自分に早く仲直りしろといいながら、もう他の相手とくっついているなんて思われているなんて心外だった。 「………蒼と日本で会ったの?」 「うん、彼がバーで誰かと待ち合わせしてるとき、丁度秘書といたんだけど、ご一緒しようとしたら断わられたよ。ああ、君が事故に合った日かな?」 「事故?」 さらに余計な黒瀬の言葉にボブが食いついてくる。黒瀬はびっくりしたような顔でボブを見た。 「あれ?君、知らない?皐月、恋人と別れて日本に帰国したと思ったら事故にあったんだよ。寝不足だとしても、意識は戻らないし本当に心配したんだ。本当、不運続きというか……、災難だったね。」 黒瀬は得意気になりながら、またチョコレートを摘んでは口の中にひょいと放り投げた。 「え、待って。皐月事故にあったの?大丈夫だったの?」 ボブは慌てて心配になり、自分の手の上に大きな掌を重ねてぎゅっと握った。大きく温かな掌の感触が伝わり、恥ずかしくなった。 「…………頭を打って切っただけだから、大丈夫だよ。睡眠不足だったから、今はよく寝てるようにしてるし。」 空いた手で切った部分を撫でながら言うと、ボブの碧い瞳は憐憫に満ちて濡れそうだった。 「でも心配だよ…………。」 「本当、君は刺されたり、轢かれたり…ついてないよね。」 深刻なボブとは対照的に追い討ちをかけるように黒瀬はボソリと呟き、べっと舌をワザと出して戯けて見せた。 「………ん、刺されたり?サツキまだあるの?」 ピクッとボブの眉が上がり、黒瀬の言葉にすぐに反応した。きっと黒瀬を睨みつけると悠の口元を拭いて素知らぬ顔をしている。 「ボブ、ごめん。本当大丈夫なんだ。昔、通り魔に刺された事があったんだけど軽傷だし、そんなに心配する事じゃないんだ…。」 心配させないように笑って言うと、黒瀬が物足りない顔をしてこちらを見つめてくるが、余計な事をもう言うなよと睨めつけた。 「サツキ、どこを刺されたの?もしかして………。」 ボブは深刻な顔になり、身を乗り出してきそうだった。 「……………足だよ。もう大分良くなったし、慣れたから大丈夫だよ。」 早足で歩いたり、走ったりはできないものの一般人と変わらないレベルまでは回復している。 だがこの国の人は足が長いせいか歩くときは早いのでいつも後ろを歩いてしまい、ボブは気遣って並んで歩けるようにスピードを緩めてくれていた。その優しさが蒼と似ていて、とても好きだった。 「…………そうか、ごめん。なにも知らなかった。」 そう言って、ボブは残念そうに溜息をつきながら深く腰を座り直した。 「いいんだ。なんか急に辛気臭くなっちゃったね……………。槇、もう本当余計な事話すなよ。」 顔を顰めて槇を見るが、本人は気にした様子はなく悠とチョコレートをまだ摘んでいる。 「え、そう?ごめんごめん。あ、ボブ、紹介が遅れたけど、僕の息子の悠。可愛いだろう?ほら、挨拶してごらん。」 槇は甘いチョコレートに満足したのかご機嫌な顔でボブに悠を紹介した。ボブは悠に視線を落とし、寂しげな顔を直して優しく微笑みかけた。 「……………前に美術館でよく会ったね。よろしくボブだ。」 「黒瀬悠です。よろしくお願いします。」 ボブが大きな手を差し出すと、悠はにっこりと笑って握手をした。昨年出会った頃より人見知りがなくなり、しっかりと挨拶している。 初めて悠に出会った時は空港で黒瀬の後ろに隠れていたくせに、今じゃ堂々とボブと握手していて、その成長ぷりに驚いた。 「悠くんは今年小学校?」 「皐月、ダメだよ、悠て呼んで!」 「ご、ごめん…。」 二人の様子を眺めながら黒瀬にきくと、悠はこっちを向いて、子供ぽく扱うなと睨んだ。 「最近、子供扱いすると怒られてね………。参ってるよ。」 黒瀬はげんなりしながら、すっかり父親のような顔で溜息をついた。その姿をほのぼのと眺め、親子関係は良好らしい事を確認するとほっとした。 そして黒瀬は何か思い出したように、ホットチョコレートを飲むと手をぽんと叩いた。カップから見えたチョコの味はビターのようで、色が自分と同じ色だった。 「そうそう、僕達もボストンに住もうと思って、最近越してきたんだ。悠はボストンのインターナショナルに通う事になってる。だから、何かあったら皐月連絡してもいい?」 「そうなの?まあいいけど、黒瀬が来るなんて………。」 蒼がどう思うやら…。 蒼が苦虫を噛むような顔が浮かんだ。知り合いが増えるのは歓迎だが、黒瀬との関係でさらに拗れた経験をした昨年の苦い記憶を思い出す。

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