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第8話
蒼に抱きかかえられるように浴槽に沈んでいると、後ろからぎゅっと抱き締められた。
先ほどまでの激しく甘い情事から、疲れを癒すように、二人で大きめの浴槽に浸かりゆったりとした時間が流れていく。ぴちゃぴちゃと水滴が落ちる音は心地良く、気怠い躰と高揚した気持ちが癒されて溶けていくようだ。
前回付き合って同棲していた頃は、初々しく一緒に暮らしていたのに、ここボストンに来てから蒼の甘えっぷりと、溺愛ぷりが凄い。恥ずかしくて一緒に風呂に入ることなんてしなかったくせに、最近は毎日のように風呂に入っては愛し合い、ベッドでもまた甘い情事を続けてしまっている。
浴室も広いが、置かれている浴槽は大きめで、二人ともすっぽりと入れるほど広々としている。足を伸ばしながら、蒼は顔を肩に乗せてきた。
「…………皐月はどんな指輪が好きなの?」
「指輪?」
風呂の温度は丁度良く、微睡みそうになっていると蒼が横から訊いてきた。
指輪という言葉に昼間の嫌な記憶と黒瀬の言葉が蘇り、眉を顰めて訝しげに声を上げる。
自分にとって指輪は戒めでしかなく、どうしても苦手の象徴だった。
「うん、そろそろ欲しいんだ。」
蒼は優しく手を絡めながら持ち上げて、互いの指先を見つめた。
長くて男らしい蒼の指に似合う指輪は沢山ありそうな気がする。
黒瀬から貰った時は嬉しくて毎日のように着けてたかったが、恥ずかしくて結局、紐を通してアクセサリーとして胸に隠していた。
堂々と指輪を身に着ける日があるなんてあるんだろうかと、その頃は思っていたが、まさかこんなに甘くて完璧な恋人を持つとは予想も出来なかっただろう。
「そう言えば今日、槙も同じような事を言っていたような気がするよ………。」
「黒瀬さん?………どうして彼の名前が出るの?」
槙の名前に反応し、蒼はぴくりと眉を上げて嫌そうな顔をするのが横で見なくても分かった。
蒼の声が低く重くなる。
「指輪しないのかって聞かれたんだ。」
「彼が?指輪しないかって?」
「いや、そろそろ蒼と指輪をしてもいいんじゃないかって。」
「黒瀬さんと会ったの?」
「…………あ。そうそう、槙と悠が最近ボストンに引っ越してきたんだよ。それで、たまたま今日会ってさ、そう、ホットチョコレートのお店で悠といたんだ。」
蒼に黒瀬と会った事と、引っ越してきた事を夕食の際に話すのを忘れて思い出したように説明した。
「え…………。」
蒼は驚いたのか、水が跳ねた音が広い浴室に響く。指輪よりも自分にとってそちらの方が重要なので、意気揚々と話すがどこか上の空のようだ。蒼と黒瀬は日本で会ったと黒瀬は話していたが、やはり、あまり仲は良さそうではない。
「悠なんて身長も伸びて、大人らしくなってたよ。子供ってあっという間に成長するっていうけど、本当に大きくなって驚いた。」
「……………へぇ、黒瀬さんボストンに引っ越してたんだね。」
歯切れ悪く返事をしながらも、予想していた通り、蒼はあまり良い顔はしなかった。
「う、うん、悠はインターナショナルスクールに秋から通うんだって。もう小学校なんて……」
悠はすっかり幼児から少年へと成長していた事に驚きながらも、しっかりとした大人になりそうで将来が楽しみだった。
そう言いかけようとしたが、蒼は微笑みながら言葉を遮った。
「皐月、黒瀬さんから何を言われたの?」
「え?」
「指輪だよ。もしかして、彼から貰った事ある?………………僕には指輪は苦手って話してたよね。」
ぎゅっと躰を引き寄せられて、耳元で低く甘い声で蒼は囁いた。
声は蕩けるように甘いが、横目で確認すると顔は穏やかだが、薄緑色の瞳は怒りを露わにし、笑っていない。
「………あ、あるけど、若い頃だし、もう捨てたよ。」
しまった……。
蒼に黒瀬のせいで指輪が苦手と伝えるのすら億劫に感じて、心の中で舌打ちをした。
黒瀬から渡された指輪は確かに嬉しかったが、その後の黒瀬の結婚式後に全てが嫌になり、捨てた辛い経験を持つ。蒼には上手く説明出来ずに、苦手で着けないとか話してなかった。
「ふーん、彼からは指輪を貰って、僕にはずっと御預けを食らわせるんだ。」
にこっと横から端正整った顔で微笑まれ、ぎゅっと躰を密着させられるといくら広い浴槽の中でもそこには自分の逃げ場はなかった。
蒼は嫉妬深い。そして負けず嫌いである。自分が我慢して、黒瀬が優先させられるなんて許せないという事だろう。
「…………そ、そんな事ないよ。あ、蒼はどんな指輪が好きなの?」
機嫌を伺いながら言うと、ぱっと嬉しそうに顔を輝かせて、蒼は悩み始めた。
腕の力が緩み、息苦しさから解放させられほっと安堵した。
「そうだね、うーん、僕はシンプルなデザインが好きだな。でも送るなら石があった方がいいし、やっぱりイニシャル………。」
「蒼、意外と詳しいね。どうして?」
振り返りながら微笑むと、ぎくっと蒼は不自然に口元を上げて嘘くさい笑顔を張り付かせた。
「そ、そりゃ、指輪好きだし、皐月もシンプルな奴が好き?」
「…………へぇ、指輪好きね。一度もそんな事訊いた事ないや。」
「そうだよ、だって指輪苦手だって言うから全然話せないしさ……。」
慌てて取り繕うこの色男を見ると、過去の恋人にせびられていたんじゃないかと予測した。
そういえば蒼の元恋人の話は聞いたことがないが、指輪の一つや二つは用意してそうだなと我ながら少し嫉妬を感じた。
「…………お互い様だね。指輪、考えてみるよ。」
クスクスと笑うと蒼は嬉しそうな顔になり、まだぎゅーー―と強く抱き締めてきた。
風呂の湯はすでにぬるくなり、互いの温もりがますます愛しく感じられた。
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