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第14話

無事にムーンのかかりつけの病院に着き、触診とレントゲンで空になったムーンの胃の中を調べ、何もない事を確認して会計を済ませた。そして病院で急に起こされて不機嫌だったムーンは、ご主人と自宅に戻って、すっかり機嫌も直り、いつもの元気な姿を見せると、ほっとして二人でその様子を眺めて胸を撫で下ろした。いつの間にか、弱々しい鳴き声も生命力溢れ、苦笑いをしながらボブと見つめ合った。 車の中でもムーンはすっかり上機嫌で膝の上で甘えて、顔を何度も擦り付けてきた。 悠に甘えられているようで、なんだか可愛くて何度も柔らかい毛並みを撫でた。 「サツキ、ありがとう。送って行こうか?」 ボブは車を降りて、ムーンを広い庭に放つと時計を見ながら心配そうに言った。 自分は庭の端の木蔭で、すっかり元気に走り回るムーンを微笑ましく眺めていた。 「………いいよ。タクシーで帰る。とにかく、ムーンが無事でよかった。」 傍に近寄って、尻尾を元気よく振るムーンの鼻先を撫でながら、ほっと溜息をついた。 一瞬、手術が必要だろうかと、頭の片隅で考えたが無事何もなく、安心した。 「……あのさ、良かったら、今度、お礼をさせて欲しい。」 「………必要ないよ。特段、何もしていないんだから。」 ボブは躊躇いながら言うが、笑って誤魔化すように返した。 「いや、君はムーンの命の恩人なんだ。………なんでもする。」 碧い瞳を瞬かせながら、真剣な面持ちで見つめてくる。 恩人といっても特別何もしておらず、うろ覚えの応急処置をしただけだ。 逆に何もなかった事が奇跡的で、余計なお節介をしてしまったんじゃないだろうかと心配した。 「ボブ、大袈裟だよ。」 「でも、僕の気が治まらないよ。君がいなかったら……」 切実に言うボブを前になんとかやり過ごそうと考えた。 「…………そうだ、今度ランチを一緒に食べよう。」 「………サツキ、それはいつもしてるじゃないか。」 ボブは困ったように、眉を潜めて溜息を大袈裟について、じっと見つめてきた。 確かに平日はランチをして、珈琲を二人で飲むのが大体の日課だった。 澄んだ碧い瞳は潤みながら、じっと顔を近づけて見つめてくるので、ついつい視線をそらしてしまった。 確かにランチはいつもしているが、借りをつくった覚えはない。 「………じゃあ機会を見て、またどこか行こう。また案内してよ。そして美味しいランチも考えておいて。」 じっとこの金髪で端正整ったモデルのような男に潤んだ瞳がまた近く感じ、恥ずかしくなり俯きながら答えた。 「うん、何でもいいから考えておいて。」 ボブはほっとしたように微笑んで、握手をしようと手を差し出した。 大きな掌がぎゅっと自分の手を掴み、弾みで少し引き寄せられた。 すると足が縺れて、咄嗟にボブの胸元に倒れ込んでしまい、広くて逞しい胸元に顔を埋めて、ボブは急いで自分を抱き締めるように受け止めた。柑橘系のレモンのような香りが鼻を掠めて、長い腕が自分の背中に回り込み身体を支えた。 「………サツキ、大丈夫??」 「うん、ごめん…………。」 そう言うが、ボブはぎゅっと身体を抱き締めたまま離してくれそうにない。 爽やかな風が頬を撫でながらも、静かな沈黙が二人の間に流れ、ムーンが足元で心配そうにこちらを見つめていた。 周りに人はおらず、庭の木漏れ日が抱き合う二人を隠していた。 「………………困ったな。」 ボブは抱き締めながら、頭上でぽそっと呟いた。 それは独り言のように聞こえた。 「ボブ?」 ムーンがこちらを心配そうに見上げて、見下ろすと大きな瞳と目が合う。 先ほどまでのぐったりとした姿はなく、すっかり主人の様子を気にしている。 「……………サツキ…………………いや、今日はありがとう。」 言いたそうになりながら、ボブは躊躇うようにそう言った。 それは何かを我慢してしるようで、諦めたような不思議な表情だった。 どうしたらいいのか分からず、ただゆっくりと胸元から顔を離した。 「う、うん。今日はムーンと一緒にゆっくり過ごすといいよ。………また会おう。今日はありがとう。」 そう言いながら、ボブの背中を撫でて、態勢を立て直してゆっくりと離れた。 ボブは名残おしそうに長い手を離して、寂しそうに笑った。 「……サツキ、ごめん。そろそろ、彼が首を長くしてまってる。………行ってあげなよ。」 ボブに言われて、はっとした。 すっかり、蒼の事を忘れていたのだ。 おそるおそる携帯を見ると、着信が数件入っている。 メールも2件ほど受信して、急に現実に戻された気分だった。 蒼の事だ、怒ってむくれているか、きっと拗ねて怒っているに違いない。 「ご、ごめん。ボブ、また後で連絡するよ。………ムーンも、また今度遊ぼう。」 名残惜しそうにムーンを撫でて別れを言うと、ムーンは元気よく尻尾を振りながら大きな瞳を潤ませていた。 ボブは寂しそうに微笑んで手を振り、その姿を見ながら大通りまで歩いてタクシーを急いで捕まえようとした。 なんて言い訳をしようと頭を悩ませつつ、静かな住宅地を抜けてながら、足を速めた。

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