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第16話

「そっか、じゃあ僕しか知らないんだね。ね、皐月。」 黒瀬は上機嫌で微笑んで、同意を求めるようにこちらを見つめた。蒼と黒瀬の両者から顔を合わせられ、何と答えれば正解なのか迷った。ついつい、ぎゅっと悠を抱き締める力を強めてしまい、悠は心配そうにこちらを見上げていた。 黒瀬の挑発にも乗りたくないし、蒼の怒りをこれ以上倍増させたくない。 どうしようかと悠を抱き締めながら、返答に躊躇していると奥から眼鏡のフレームがきらっと光るのが見えた。 「………槇さん、早くしないと予約時間過ぎますよ。」 後ろにいた秘書が黒瀬の肩を叩いて、冷たい声で凍りついた雰囲気を壊し、黒瀬は腕時計を眺めた。その時計は何処かで見かけた事があり上等なスーツには少し不格好に見え、はっとした。 「槇、その時計……………。」 そう言いかけると蒼の視線も黒瀬の腕時計に移り、黒瀬は少し気恥ずかしそうに腕を上げて古い時計をみせた。 「そう、君からのプレゼントだよ。………気に入ってて、たまに使ってるんだ。」 寂しげに笑うその顔に、数年前の自分が蘇りそうだった。 「あ、ありがとう。」  ーーーー因みに黒瀬からのプレゼントは全部捨てたとは流石に言えない。 その時計はバイトで懸命に貯め、学生なのに見栄を張って買った、最初で最後の黒瀬へのプレゼントだった。 懐かしくなりながら眺めていると、秘書が眉を顰めて黒瀬の背中を軽く押した。 「さ、槇さん、悠くん、もう行きますよ。」 秘書は二人に冷たく指示するように言い、店内へと急かす。 「うん。じゃあ、皐月、またね。蒼さんもまた今度ゆっくり話しましょう。」 黒瀬は驚きながらもぐいぐいと背中を押され、足を早めた。 悠は渋々自分から離れ、黒瀬とともに名残惜しそうに秘書に連れて行かれた。 三人が消えると、どっと力が抜け、急にあたりは静かになり、遠くから街の喧騒が響く。 本当、黒瀬と会う度に寿命が縮まるような気がする。まさかあの時計を未だにつけているとは思ってもいなかった。散々浮気されて辛かったが、黒瀬のそういう所が好きだったと改めて思い出された。 「腕時計…ね…。」 蒼は遠い目をしながら前を歩いた。 少し歩けば大通りに突き当たり、タクシーがよく走ってる。 「う、うん。学生の時のだよ。」 ちなみに蒼には互いに酒好きなのもあり、いつもワインやウィスキーなど主にプレゼントは酒類で、今まで物を贈るのは避けていた。蒼からは唯一オルゴールだけ貰い、物は過去のトラウマから、とは言っても、主に黒瀬のせいだが、避けていた。 早足で歩く蒼の背中を、気まずい気分で眺めながらゆっくりと追いながら後ろを歩いた。 二人の間に距離が出来たと思うと、蒼はピタッと足を止めて振り返った。 「………………皐月、早く家に帰ろっか。」 蒼はニコッと笑い、長い腕を上げて流れるように走るタクシーを止めた。その顔は穏やかで優しく、普段と変わらない笑顔で、嫌な予感しかしなかった。

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