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第31話
悪い事を想定して、幸せにありつけるだけでいいと常に考える癖をすっかり忘れていた。呑気に幸せに浸り、浮かれていた自分を揺り起こしたい。夢の中でそんな事を思いながら、この幸せなひと時を手離してしまうのが怖いなと蒼の逞しい胸の中に顔を埋めた。
ロサンゼルスのビーチは、本を読んだり、日光浴をしたり、ヨガをする人など、沢山の人達がのんびりとした雰囲気で時間がゆったりと流れていくのを感じていた。
結局、何度も身体を求める蒼に合わせて気を失った自分は朝方に目を醒ました。簡単な朝食を済ませ、朝からビーチを散歩している。潮風に吹かれながら歩いていると、ビーチ沿いの壁やヤシの木に描かれたアートを楽しんだりと蒼と手を繋ぎながら、のんびりと過ごしていた。ロマンス溢れる時間にうっとりとサングラスをかける蒼を見つめながら、砂の上を歩いていく。
「皐月、ビールと珈琲どっちがいい?」
手を繋いで先を歩いていると、何件かカフェが立ち並んで見える。すでに開店しているのか、人が集まり、軽食を取りながら海辺を眺めて楽しんでいた。
「………蒼、まだ10時だよ。」
呆れながら言うと、蒼はにこにこと笑って朝から飲む気満々だった。医者の不養生はここから来るのかもしれないとなんとなく思う。
「いいんだよ、この日の為にずっと働き詰めだったんだから。そうだ!クラフトビールが美味しいレストランがあるんだ。そこでピザを食べて、ランチにしよう。」
ロスと言っても広く、土地勘がない新参者は従うしかない。しかしながら、朝から大変だった。ぐったりと横たえながら疲れている自分に、蒼は『皐月と観光したい!』と分厚いパンフレットを沢山持ってきて、目の前にバサバサとベッドの上に落とした。その膨大な紙を眺めるのすら面倒臭くなり、ビーチを見ながら一緒に手を繋ぎたいと潤んだ瞳で蒼を見上げたら笑顔で承認されたのでホッとしている。
兎に角、子供のような蒼を手懐けるだけで、一苦労だった。
「蒼はロス、何回か来た事があるの?」
「………そりゃ、何度かあるよ。」
意味深な答えに、何故か嫌味を言いたくなる。
「仕事?」
「皐月、今日は意地悪だな。…………仕事でも来たこともあるよ。」
したり顔で訊くと、蒼は溜息を小さくついて苦笑した。つい昨夜の話が頭にこびりついて、蒼の過去をなぞってしまう。前の恋人が亡くなったと聞いて、昨日はそれ以上は聞かなかった。蒼も自分以上に辛い想いをして、乗り越えてきたのだろうと思うと、蒼をもっと大事にしなければと思ってしまう。
蒼の大きな手を握りながら歩くと、珈琲の豆が香ばしく鼻を掠め、ふと足を止めた。
「蒼、1杯だけ珈琲を飲もうよ。」
カフェイン中毒の自分にとって、朝の珈琲がどうしても欲しくなる。
どうしても朝はアルコールより熱い珈琲を飲みたい。我慢出来ずに蒼の服の裾を引っ張った。
「…………そう?じゃあ先に買っておくから席を取っておいて欲しいな。アメリカン?」
「蒼、ブレンドが良いな。」
満面の笑みで答えると蒼は笑って、大袈裟に両手を上げてカフェの入り口に並んだ。
自分は店内に入りテラス席を覗く。外はビーチに柵が仕切られており、丸テーブルと椅子が並んでいた。そして真っ白な砂浜にヤシの木が生えており、青い空と海が絶妙なロケーションで見えた。
数歩足を進めて、比較的空いてる席を探す。客席は何席か埋まっており、見渡すと斜め横にボブが誰かと座って話しているのが見えた。
そっと砂を踏みながら近づいて、ボブの肩に手をかける。
「………ボブ、おはよう!」
二日酔いもないので、驚かせようとそっと背後から声を掛けた。
ボブは自分の声にびくっと大きな身体を揺らす。昨日のスーツとは違い、Tシャツにジーンズという軽装で、あたふたと振り返る。
「サ、サツキ!?なんで?今日は市内に観光じゃないの!?」
あまりの驚きように自分も驚いて後退りしてしまう。そして目の前に座っている相手もボブの驚きように大きな瞳を丸くさせていた。
よく見ると、綺麗な顔立ちをしており、アジア人か日系人なのかどこか中性的に見え、年齢は読めない。長い睫毛と黒髪が印象的で、可愛いというより造形的に美しいと言っても過言ではない。薄いブルーの瞳を瞬かせながらこちらを見ている。
「驚いた。………ボブ、びっくりさせてごめん。」
「い、いや、良いんだ。」
ボブは慌てて、手にしていた写真をポケットに隠した。一瞬、誰かと蒼に似ている青年が仲良く写っていたように見える。テーブルには珈琲のカップとジンジャーエールの小瓶が並んでいた。
「皐月?」
じっとボブを見つめていると後ろから蒼の声がして、ボブは蒼の顔を捉えると顔を手で覆った。そのリアクションはまるでドラマの様に大袈裟で、何も考えていない自分はつい笑ってしまいそうになった。
「………………最悪だ。サツキ、ごめん。」
「え?」
振り返ると蒼は白い砂の上にコーヒーを落として、驚いた顔で佇んでいた。
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