38 / 85

第37話

黒瀬と本屋に寄り、まっすぐに帰宅した。腕時計を見るともう15時を回っており、玄関の扉を開けると蒼の靴があった。珍しい。今日は遅くまで仕事だと思いながら、キッチンに顔を出すと蒼がいた。 「蒼、ただいま!」 驚かせようとそっと忍び寄って肩に手をかけるとびくっと蒼の身体が動いた。 「さ、さつき!?」 「はは、ごめんごめん。」 蒼の反応が面白くて笑いながら繋がっているリビングに行く。ローテーブルに買った本を数冊置くと、ソファに座った。ずっと歩いてばかりだったので、座っただけで疲労感が滲み出てくるようだ。黒瀬のふざけた冗談を聞き流しながら、結局本屋で無理矢理オススメの本まで押し付けられた。キッチンにいる蒼に目を向けると、喉が渇いてるのかペットボトルの水をごくごくと飲んでいる。ポロシャツにジーンズと軽装で、右手でペットボトルを持ち上げ、椅子に手をかけている左手の薬指がキラッと一点だけ光るのが見えた。あれ?と思い、じっと目を凝らして見ていると蒼と目が合った。 「…………おかえり。どこに行ってたの?」 蒼は優しく微笑んで、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てた。 「公園まで散歩して、本屋に寄ったよ。蒼、今日休みだったけ?………指輪してて珍しいね。」 そう言うと、ハッとしたのか蒼は笑ってゆっくりと指輪を外す。外した指輪を胸ポケットに入れた。 「いや、午前だけだったんだ……。久しぶりにさっきつけたけど、やっぱり忘れないうちにしまっておくよ。」 蒼はそっと近寄るとソファに座っていた自分の隣に腰を下ろして、一緒にテレビを眺める。 「へぇ、用心深いね。あれほど嬉しそうにつけてたのに急にどうしたの?」 ロスに行く前はずっと指輪をつけた薬指を眺めて喜んでいたのに、ボストンに戻ってからは指輪をつけている所をあまり見ない。 「……………同僚で結婚指輪を無くした奴がいてさ、怖くなったんだよ。」 蒼は普段と変わらない笑顔で話す。ふーんと思いながら、チャンネルを変えるが昼間のバラエティやニュースは何故か味気ない。 不意に隣の蒼から柑橘系の香りが漂う。いつもムスクの香水をつけてるのに珍しい。 「……………蒼さ、香水かえた?」 そういえばロスに行ってからこの香りに気がつく。お土産で買ったただろうか……と記憶を辿る。 「え?」 蒼の身体がピクッと揺れるのを感じる。顔を見上げると、普段と変わらない表情だ。 「いつもの香水と違う匂いがする………。」 くんくんと身体を伸ばして、蒼の首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。やっぱりどこか柑橘系の香りがして、仄かにいつものムスクの香水の匂いも混じっている。自分は香水をしないが、蒼のムスクの香水は気に入っていて変えるとなると名残惜しい気分になる。 「………ちょっと気分転換にね。そうだ、一緒にお風呂にでも入る?」 蒼は思いついたように笑って、恥ずかしげもなく提案してくる。 「…………まだお昼だよ?」 真昼間から2人でバスルームにいるのを想像して顔が赤くなるのを感じた。 恥ずかしそうに蒼の顔を見つめるが、久しぶりにゆっくり蒼と触れ合える事が嬉しく、小さく頷いた。お互い忙しくて、まともに時間を取って話すことが出来なかった。身体が火照っていくのを感じ、バクバクと心臓が高鳴りを感じながら向かい合わせになるように蒼の身体に乗り上がる。そして自分から蒼の唇にゆっくりとキスを落とす。 「また1人でしてるの見せてよ…………。」 唇が離れ、うっとりとしていると耳元で甘く囁かれた。蒼の顔を両手で掬い上げ、潤んだ瞳で彫りの深い端正な顔立ちを見つめる。 どうしてだろう、こんなに幸せなのに、何か物足りなさを感じる。なんだろう、何かいつもの蒼と違う気がする……。 じっと蒼を見つめながら、こびりつく違和感を感じていると、急に蒼の大きな掌が後頭部を包み込むように掴まれた。ゆっくりと蒼の顔が近づき、またキスが深くなる。互いの舌を絡めながら、甘い快感に酔いしれると違和感ともいえる小さな疑問は掻き消されていく。 「………んっ…蒼…好きだよ。」 互いの唾液を吸い合い、唇が離れると蒼を見つめながら小声で囁く。蒼にはなるべく自分の想いを伝えるようにしている。不意に亡くなった恋人の事が思い浮かぶ。蒼の事だ、今の自分のように優しく、真剣に向き合いながら恋をしていたんじゃないのだろうか。 でも、今は自分だけだ……………。 そう思うと愛しさが増して、蒼をもっと大事にしようと思った。蒼の長い睫毛にキスを落とした。黒瀬の言う通りだ。もっと蒼の気持ちを考えて、大切にしなければならない。 もう一度蒼の唇にキスをする。 「………うん、僕もだよ。」 蒼は寂しそうな顔で呟くと、小さく微笑んだ。

ともだちにシェアしよう!