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第39話

戻るならあの日に戻りたいと蒼は思っていた。 ユーリと出会ったその日、朝から一日外出し、ビールを飲み、観光して軽食を取るとホテルに戻った。 シャワーを浴びてベッドに戻ると、疲れたのか皐月はすやすやと深い眠りについていた。 ベッドの端に腰を下ろし、じっと皐月を見つめる。 黒髪の柔らかなくせっ毛が寝息とともに揺れ動いている。 携帯を手にしてそのまま眠ってしまったようだ。 頬を優しくなでると皐月の口元が少し上がり、微笑ましかった。 指輪を皐月から貰ってとても嬉しかった。ずっと考えていたプロボーズも無事果たし、愛しくてしょうがない。 黒瀬やボブに嫉妬をしてしまう事があるが、やはり皐月が好きだと心の底から感じる 皐月の事を考えていると、どこからかバイブ音が聞こえた。 辺りを見回すと、椅子に掛けていた自分のジャケットが微かに振動している。 ベッドから離れ、鳴り止まないバイブ音がする携帯を手に取った。 画面を確認すると、それは知らない番号が表示されている。 この携帯はプライベートで家族と皐月、友人ぐらいしか知らない。 不信に思いながら、皐月を起こさないように声を潜めた。 「…………もしもし?」 『……………アオイの番号ですか?』 どこかで訊いた事のある声だった。 記憶を反芻すると、今日の昼間に会ったのを思い出す。 「ボブ?……………君は、どうしてこの番号を知ってるのかな?」 低い声で威圧感を微かに出しながら訊く。 皐月が勝手に自分の番号を教えるわけない。 蒼はベッドから離れてミニバーからウィスキーとグラスを取り出す。 『……………すみません、酔っていたサツキの携帯から……です……。』 ボブは言いにくそうに言った。 確か赤ワインを飲んで、しなだれかかっていた皐月を思い出す。 酔った皐月のスーツから携帯を取り出して、指紋認証でも解いたのだろうか。 真面目で純粋と皐月から訊いていたので、そんな事をする男だったのかと蒼は少し驚いた。 「……………はは、君はスパイなの?皐月が知ったら悲しむよ。」 ウィスキーをグラスに注いで、ストレートのまま少し口に含むと胃の中がカッと熱くなるのを感じた。甘い香りがなんとも言えない。今日は皐月とクラフトビールを飲んでいたが、味が分からないほどぼんやりしていた自分を思い返す。 『アオイ、今からお時間頂けませんか?』 ボブの声は冷たく、視線を皐月に移すと気持ち良さそうに寝息を立てている。 寝返りを打ったのかくせっ毛の黒髪は撥ね、暫く起きそうにない。 「……………ごめん、こっちはハネムーン気分なんだ。…………その、ユーリには会えないと言ってくれないか。」 蒼は申し訳なさそうに呟いた。 今さら昔の恋人に会っても、皐月が悲しむだけだ。 皐月とやっとここまで歩んできたのだ。もう悲しむ顔をさせたくない。 ユーリには会って話したい気持ちは少なからずあった。 皐月には言えないが、今日はずっとユーリの事を考えてしまっていた自分がいた。 ユーリの顔を一目見て、動揺し、驚いた。勿論、出会えた喜びもある。 儚げな顔立ちと、細い身体は変わっておらず、ユーリと付き合っていた記憶がまざまざと浮かびそうだった。 『………………その、ユーリの事なんですが………。』 ボブは電話越しで小声で話す。蒼はその内容に驚き、愕然とした。 時計を見るとまだ真夜中ではない。蒼はバスローブを脱いで、急いで着替えた。薄手のジャケットを羽織り部屋を出ようとして、振り向いて皐月の寝顔を確認する。 皐月は何も知らずに眠っており、起きそうにない。 すぐに戻れば大丈夫だろう。 大丈夫。絶対に裏切らない。もう皐月に悲しい顔をさせないと誓う。 蒼は強く心に思いながら、静かに部屋の扉を閉めた。

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