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第43話

蒼はカウントウェイ医学図書館にいた。 1960年にボストン医学図書館とハーバードメディカルスクール図書館が合併し、世界最大規模の医学系蔵書を有する図書館として誕生している。70万冊以上の書籍に加えて、多数の原稿、写真、歴史的文書、電子資料を所蔵している。この図書館は、ハーバード大とその所属病院や研究所の学生、教職員、臨床医だけでなく多くの大学に所属する人々に広く開かれていた。そしてなんといっても、研究室の外に出ることなく、最新の研究論文を手に入れられるのが最大のメリットだ。 金色のランプが各机に配置された図書室に腰を下ろし、小さく溜息をつく。時計を眺めるとそろそろ帰らなければならない。仕事を早々に切り上げ、蒼は図書館で論文や専門書をひたすら読み耽っていた。ユーリの術式を丹念に調べ上げ、ほかのアプローチがないかずっと探っていた。 ユーリの心臓はすでに小さな爆弾を抱えるように悪くなっている。何度も手術を繰り返し、余命幾ばくもない。もともと先天的な心房中隔欠損症(ASD)に加え、最近の定期検査で弁膜症が判明し、手術を受けるように勧められていた。 だが、ユーリは繰り返す手術に疲れ果て、自分の寿命をすでに諦めかけていた。投げやりな態度で、家族やボブからの必死の説得をも受けようとしなかったそうだ。そして、再会した自分を見て、「蒼となら話したいな」とボブに小さく呟いた。 ロサンゼルスでユーリと再会した時は嬉しかったが複雑な気持ちだった。 そして今はさらに複雑になり、拗れたこの状況をどうしようか頭を悩ませている。 ユーリの病状を聞いてショックを受けたが、まさかこんな形になるとは予想できなかった。 蒼は重なる医学書を返却し、帰宅しようとした。 ロサンゼルスのあの夜の事を振り返る。 ボブは電話で言った。 『………………その、ユーリの事なんですが………。アオイ、ユーリに手術を受けるよう説得してくれませんか?』 『………………ユーリがそれを望んでるの?』 優しく穏やかな声で冷静に話す。 『……………そうです。』 ボブの声は低く重かった。 例え医師だとしても、勤務中と同じ事しか話せない。 そしていくら自分が元恋人だとしても、頑なに手術を拒むユーリがすんなり受ける訳がない。 どうしようかと思うが、皐月の寝顔を見て、皐月と相談してからにしようと思った。 『ごめん……それは…………。』 断りの返事を言いかけようとしたとき、ボブはその言葉を遮った。 『すみません、ユーリは何故か、皐月を酷く憎んでいます。………だから、皐月の為にも今からユーリの元へ来てくれませんか………。』 ボブはホテルと部屋の番号を最後に言い残し、電話を切った。 ホテルへ到着し、指定された部屋の扉を開き、広い室内に足を歩み入れる。 部屋は広く、ツインの部屋だった。 ベッドに腰掛けているユーリが一人でいた。 ユーリが蒼の顔をみると、青白い顔がぱっと明るく変わるのが分かる。 『蒼、来てくれたんだね』 ユーリに近寄ると、ユーリはベッドに座りながら細い腕を伸ばし蒼の頬を優しく撫でた。 その手は酷く冷たく、華奢のように感じる。 左手には見覚えのない指輪が嵌められているのが見えた。 ユーリには指輪を送った記憶はない。 『……………ユーリ、僕は君に何も出来ないよ。せめてだけど、話す事しか出来ない。』 笑いかけるユーリに、蒼は困った顔で首を横に振る。 説得は出来るが、別れた恋人の説得など家族やボブよりも意味をなさない。 ユーリは大きな瞳を潤ませて、今にも泣きそうな顔になるのが分かった。 その表情は今も昔も変わらないような気がした。 『…………本当に久しぶりだね。ずっと逢いたかったよ。』 『うん、君と会えて僕も嬉しいよ。』 お互いに微笑みながら、挨拶に似た会話を交わす。 それが終わると短い沈黙が流れ、唐突にユーリは呟いた。 『…………形だけでもいいから、蒼と恋人に戻りたい。………そうしたら手術を受けたいな…………。』 ユーリは伸ばした腕を下ろし、蒼を見上げた。 白いうなじが見え、じっとこちらを見つめている。 『ユーリ、それは絶対に出来ない。』 はっきりと強く、伝えた。 いくら昔愛した相手でも、今は皐月だけを愛している。 そう言うと、ユーリは薄く笑った。 『……………そっか、恋人がいるんだよね。』 寂しげで、消えそうなほど儚げに見えるが、今まで見た事のない冷たい表情だった。 『……………だから君のお願いは訊けない。ごめん。』 ふと皐月の笑った表情が頭に浮かんだ。 申し訳ない気持ちと皐月を裏切りたくない気持ちで一杯になる。 今ここにいることですら、皐月を傷つけていると自分には分かっている。 嘘に怯え、散々傷つけてしまっている皐月にこれ以上深い傷を与えたくない。 『蒼、それは恋人に危害が及んでも同じ?』 突然、ユーリは儚げで潤んだ瞳とは裏腹に恐ろしい言葉を呟くのが聞こえた。 聞き間違いだと思い、ユーリの顔をじっと眺める。 『危害?』 『…………名前は皐月さんだっけ?…………ボブと皐月、仲がいいんだよね?蒼の恋人と知ってショックを受けてたよ。皐月は僕の大切な物を簡単に奪っていくんだね。………………本当に許せないよ………。』 その声は冷淡で、今まで見た事のない冷たい表情になっていた。 付き合っていた頃は優しく、温かく、それでもその瞳は誰か他の人を見ていたのを覚えている。 『ユーリ、落ち着いて。………皐月は関係ないよね?』 皐月とユーリの接点など何もない。 どうしてユーリは皐月をそれほど執着するのか理解できなかった。 『そうだね、でも……………。』 ユーリは顔を顰めた。 蒼ははっとして声を上げた。 『…………そうかやっと分かったよ。君が昔から好きだった人は、あの男なんだね?』

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