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第50話
飲んだコップを洗って置い、リビングのソファに腰掛ける。
ボブからの連絡もなんとなく避けて、読んでいない。
唯一連絡しているのは黒瀬だけだ。
それを思い出して携帯を取り出し、出張中の黒瀬に一応報告のメールを打つ。
『無事に寝たよ。』
短く送信すると、すぐに黒瀬から着信が来た。
『皐月、どう?君の可愛い彼氏はよく寝てる?』
携帯の奥から語弊がありそうなニュアンスで黒瀬の声が調子よく聞こえる。
確かに小さな彼氏のように感じるが、仮にも自分の息子になんて言い方なんだろうと怒りそうになった。すっかり気分は彼氏というより、母親の気分だ。
「…………天使の寝顔で寝てるよ。頼んだ事はやったの?」
『やったよ。僕の秘書は優秀だからね。でも皐月、蒼さんと連絡とってないんだって?彼、僕が連絡なんて毎日来てるよって話したら酷くショック受けてたよ。』
「………………考えを整理したいんだよ。」
『考えって…………。君の気持ちも分かるけどね。ボブからも事情を聞いたら、蒼さん、本当にユーリに脅されてたらしいよ。人を雇って君に危害を加えるとも話してたらしい。嫉妬は人を変えるっていうけど、僕は蒼さんに同情するよ。』
「………………え?」
ペラペラと話す黒瀬の話に頭が追い付かず、一体何があったのかよく理解できなかった。
その前に黒瀬はすでに自分の頭の中で100回は刺してるとツッコミそうになった。
『彼だって、今は皐月の事好きなんだから、そろそろ許してあげなよ。』
黒瀬は蒼に本当に同情したのか、珍しく有意義な意見を提案してきた。
「…………許すって、別に怒っていない。」
本当にもやもやする考えを整理していただけだ。
蒼に対して、怒りも何も抱いていない。
ユーリに対しても嫉妬とかそんな感情はもうなかった。
『ほら、そうやって………。お互い頑固だと進まないのは知ってるよね?…………ま、明日には戻るから悠を宜しくね。できるだけ平和的に頼むよ。』
黒瀬は笑いながら電話を切った。
ユーリが蒼を脅す?
自分に危害を加える?
寝耳に水で、これから軽く飲んで寝るところだったのに既に目が冴えそうだ。
頭が混乱していると、また携帯が振動した。黒瀬だと思ってすぐに出る。
「黒瀬、さっきの話っーーーーーーー」
『皐月?』
聞き覚えのあるその声は黒瀬ではなかった
しまったと思い、携帯を離して名前を確認すると蒼だった。
重く感じる携帯を耳にゆっくりと当てた。
「…………………蒼。」
数日しか離れてないのに、去年のように日本とボストンぐらい遠くにいるような気がした。
そのまま電源ごと切ってしまいたい衝動に駆られるが、我慢した。
『……………繋がって良かった。今、大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
時計を見るとまだ20時だった。
仕事が終わったのか、それともまだ途中だったのかよく分からない。
『…………………………ユーリの手術が無事終わったんだ。』
蒼は躊躇ったが、短い沈黙を置きつつ静かに言った。
そうだ、ユーリは今週手術の予定だとボブが話していた。
蒼は執刀医だったはずだ。
「………………お疲れ様。成功したの?」
『うん、君が黒瀬さんに頼んでくれたおかげで素晴らしいチームと組ませて貰ったよ。的確な論文データもすぐに掻き集めてくれて助かった。ありがとう。」
蒼はそう言って、電話の向こうで頭を下げるのが分かった。
「……………うん、黒瀬は顔が広いからね。秘書の人も優秀だから力になればと思ってお願いしたんだ。余計な事をしたかなて思ったけど、役に立てて良かった。」
黒瀬の仕事は金融だが詳細は分からない。確かM&Aで買収した企業を傘下に置いたりしていて、分野は幅広く医療機関まで手掛けていた。だから病院経営にも精通していて、さらに優秀な秘書を抱えている。忙しい蒼の代わりに動いて、サポートするようにお願いしたのだ。
ユーリの病状をボブにも聞き、蒼とコンタクトを取り、必要な論文データ、そして優秀なチームメンバーを世界から直ぐに掻き集めて補充したようだ。おかげで蒼は無事に集中して手術に臨めたようだ。
ただ散歩しているだけだと思ってた黒瀬に不安を感じたが、役に立ってほっとする。
『………皐月はどうして、こんな事を黒瀬さんにお願いしたの?』
「………………蒼は優秀だから自分の力で解決してたと信じてるけど、誰かを頼って欲しかったんだよ。………それに愛する人が亡くなったら悲しいからさ。余計なお節介だよ。」
ユーリのあの青白い表情と、華奢な身体がどうしても忘れず、なんとか元気になって貰いたかった。例え自分が彼の身代わりだとしても、蒼を愛した人をなんとか救いたい。そして蒼が幸せであればいいと思って黒瀬を頼った。
『余計なお節介じゃないよ。ありがとう。感謝してるよ。』
「……………ユーリさんとはまだ付き合ってるんだよね?」
思わずそんな質問を投げかけてしまった。
『君と話してから関係を解消したよ。』
蒼ははっきりとした声で言った。
ソファに沈みながらぼんやりと相槌を打つ。
「…………………そう。」
『愛してるのは皐月だけだよ。』
蒼の優しく穏やかな声が耳を撫でる。
いつも聞いているのに、今日はどこか遠く感じる。
「でも、ユーリに似てるから好きになったんだよね?」
さっきまで黒瀬に指摘されたのに、どうしても素直になれない。
頑固な自分を感じ、蒼に冷たくしてしまう。
『違う。君は………その………………。』
蒼が急に黙った。
「その?」
一瞬、蒼が何か言い訳を考えているのかと思い顔を顰める。
ユーリの顔を思い出すが、自分としても似ているとは思いたくなかった。
『………………僕は昔、ユーリと別れてから図書館の帰りにボストン・コモン公園に寄ってたんだ。』
たしかにボストン・コモン公園の周囲にはいくつか図書館が点在している。
公園は広く、少し歩けばボストン公共図書館もある。
「蒼?」
急になんでこんな話をするんだろうと頭がついていかない。
なんで別れた後の話を聞かされなければならないのだろう。
蒼の脈絡のない会話に頭が混乱した。
『………その………君は……………………………………リスに似てるんだ。』
蒼の声はさらに小声になった。
「リス?」
意味が分からず、同じ言葉を繰り返した。
公園にいるリスを思い浮かべる。
尻尾が太く、人懐っこい時もあればささっと居なくなるあのリスだ。
『…………そうだよ。ユーリじゃなくて、公園のリスに似てて一目惚れしたんだよ。僕はあの公園のリスに何度も癒されて、君を見た瞬間、一目惚れしたんだ。』
ふいに弘前の言葉を思い出す。
何かに似ているというのは、人間でなく、『リス』だったのだろうか。
確かにユーリはリスというより、バンビに似ている。
「蒼、はは、それこじつけじゃないの?」
思わず話しながら、噴き出してしまった。
先ほどまでのしんみりとした雰囲気が一気に壊された。
『…………………こじつけじゃないよ。君が嫌がるかと思って、ずっと喋りたくなかったんだ………。』
深い溜息が聞こえ、蒼が電話をしながら顔を覆うのがわかった。
蒼が今まで話したがらない理由が何となく分かった。
「………………蒼、分かったよ。今度公園にリス、見に行こう。」
そう言うと、蒼がぱっと明るくなったのが電話越しで分かる。
しまったと思ったが、蒼はすぐに返事をする。
『皐月、ありがとう。うん、絶対行くよ。』
「………………うん、じゃあ明日帰るから」
蒼も黒瀬に似てきているのか、こういう時は調子が良い。
呆れながら電話を切ろうとすると、蒼が慌てて電話で話すのが聞こえた。
『皐月、愛してる。本当に今回はごめん。だから戻ってきて欲しいんだ。』
「うん。俺も愛してる。おやすみ。」
名残惜しそうな蒼に短くそう言って、意地悪く電話を切った。
それくらいは許して欲しい。
まさか自分がユーリでなく、リスの身代わりだと思うと阿呆らしくなり、また噴き出してしまった。
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