8 / 36

甘くて酸っぱいホットレモン①

 玲望はそんなふうに言ったけれど、実のところファーストキスもレモン味だったのである。  覚えていないゆえにそんなことを言った、わけではないだろう。照れ屋な性質ゆえに。なにがファーストキスだよなどと言ったに決まっている。  もうそのくらい、瑞樹には伝わってしまうようになっていた。  レモン味のファーストキスは、甘酸っぱかった。それは六月の現在、つめたいレモネードを飲んだときの味と同じように。  だけど甘酸っぱかったのは触れたくちびるだけがではない。それよりもっともっと甘酸っぱかったのは、心の中が、である。  ほわっとあたたかくなると同時、きゅっと締め付けられるような甘さが胸に広がった。こんな感覚も感情も初めてのことで。  感覚については聞いたことがないのでわからないけれど、キスの回数としては聞いたことがある。「俺がファーストキス?」なんて茶化して、けれど本心ではちょっとどきどきしながら尋ねた。  玲望は答えるのを渋った。やはり恥ずかしがり屋ゆえに。それでも最終的には言ってくれた。「お前とのアレが初めてだよ」と。少々拗ねたような声と口調で。  それが実のところ、拗ねているのではなく照れているだけだというのは、まだ付き合って一ヵ月と少しだった頃の瑞樹にははっきりわからなかった。正しく理解するにはもう少し……数ヵ月を必要としたものだ。  そのファーストキスの日。随分涼しい、いや、はっきり言ってしまえば寒い日であった。  秋の終わり。そろそろコートが必要かな、なんてその日の朝感じたことをよく覚えている。  昼間はそれほど寒くなかったというのに、夕方、帰路につくころには日も落ちかけてだいぶ冷え込むようになっていたのだ。 「なに、待っててくれたの?」  急いで向かった校門。玲望はなにやらスマホを弄っていた。  けれど速足でやってきた瑞樹が声をかけると、すぐにそれから目を離した。ちょっと拗ねたように言う。 「別に。今日バイトないから」  バイトがないならさっさと帰ってしまうことも多いのに。なのに瑞樹の部活が終わるのを待っていてくれたのか。瑞樹が嬉しく思ってしまっても仕方がないだろう。  ボラ研が終わってスマホを取り出し見てみるとメッセージがきていた。  玲望からであった。瑞樹の心は騒いだ。メッセージは『校門にいる』だったので。  こうして待ち合わせて帰ること。春先に知り合ってからは割合よくあることだった。  クラスは別だったけれどなにしろ同じ学年で、秘密を共有する仲にもなってしまったのだ。  友人になるのはあっさりとだった。親友かと言われたらよくわからなかったけれど。  瑞樹には中学時代、親しい友人がいた。小学校から一緒だったのだ。よくつるんでいた。  高校生になってもちょくちょく休みの日などに会っていたけれど、やはり学校が違うというのは学生にとって大きい。多少の距離感はできてしまった。寂しいことであるが、仕方がない。  なので高校一年生当時、少なくとも同じ学校に親友と呼べる存在はいなかった。部活でできた同級生や先輩、あるいはクラスメイトなど親しく話せる存在は多かったけれど。なにしろ社交的だ。  その頃、玲望にもどうやら特別に親しい友人というのはいないようだった。瑞樹と同じく、駄弁ったり、ランチなどを共にするような友人は多いのだが、特別、という存在は感じたことがない。  それは瑞樹にとってある種の期待を抱かせてしまう事実だった。  勿論、自分が親友のポジションになれるのではないかというものではない。違う意味での『特別』。自分がそれになれる可能性はある。  実現する可能性は低かった、と、少なくともそのときの瑞樹は思っていた。  けれどゼロではなかった。自分がどんな意味でも特別であったのなら、そういうふうにコトが転ばないと、どうしていえよう。  つまり、瑞樹は玲望を友人としてではなく確保しておきたいと望むようになっていたわけだ。  端的に言うなら恋をした。そういうことだ。  自覚したのは随分早かったように思う。春先に出会って夏休みの頃には思い知っていた。  俺はきっとこいつのことが好きなんだろう。女の子を好きになる感情と同じ類のものなのだろう。  相手が玲望、つまり男であったのには戸惑ったけれど、そう大きな問題だとは思わなかった。  昔ならいざ知らず、現代では同性同士で付き合うことだって、簡単ではないけれど少なくとももはや異端ではない。よくあること、でもないけれど、起こったってなにもおかしくないこと。  別に玲望の外見が麗しくて、少々女の子にも見えるような中性的なものだから、なんてつまらない理由ではない。理由の欠片くらいにはなるかもしれないけれど。  それより瑞樹を惹きつけたのは、玲望のちょっと変わった生活と方針。そしてそれを実行してしまう、ストイックで器用なところである。  玲望の生活は非常に貧しい。それは偶然から玲望の秘密を見てしまったときから瑞樹はわかっていた。けれど玲望はそれを悟らせないように振舞う、という方針のもと学校生活を過ごしている。  それは少々変わり者であるといえる。  別におおやけにしてしまってもかまわないだろう。ネタなどになるかもしれないが、高校生にもなってそんなことでひとをいじめたり馬鹿にしたりするような、そんなくだらないやつはほんの一握りだろうから。  なのに、玲望は学校ではしれっとしているのだ。普通にノートも教科書も、学用品も当たり前のように使う。弁当も白米におかずが何品か、なんてごくごくプレーンなもの。  制服だって汚れていたりくたびれていたりすることもない。それどころかワイシャツはいつも、ぱりっとしていた。クリーニングにでも出しているかと思うほどに(これは自分でアイロンをかけているのだということをあとから瑞樹は知った)。  そういう玲望の学校生活。格好つけているのだろうかと最初は思った。  けれどそうではない、ということをそのうち知った。  玲望にとっては、そうあることが自然であるのだった。  格好つける、つまり無理をしているのではない。貧しい生活を厭うことなく、捻くれることなく、自分の生き方として受け入れている。そしてそれをより良いものにしようと努力している。  だから、きっとそれは『周囲に余計な気を使わせたくない』なのだろう。  玲望は少々ぶっきらぼうなところがあるけれど、協調性はあるし、和を乱すことは好まない。  そしてとても優しいのだ。よもぎ餅なんて弟、妹に作ってやるのと同じ。周囲の友人たちに対しても、なにかしてあげる気持ちも労力も惜しまなかった。  そのくせ『気を使わせたくない』なんて、自分のことは棚にあげてしまうところがあるのは、完全に良いかといったら微妙なところであるけれど。  そういうところに惹かれていった。世話焼きの面がある瑞樹の心も刺激したのだろう。  『気を使わせたくない』と振舞う玲望が力を抜けるような存在になれたら。恋心のスタートはきっとそんなところから。  友人として過ごして、数ヵ月。多分玲望も、瑞樹には随分気を許してくれたのだろう。家に招いて料理を振舞ったりしてくれるまでになっていた。  生活に関して無理をしていないとはいえ、一ミリも負担になっていないなんてわけがない。  秘密を知られてしまった、という形であっても、知っている、そしてそれを受け入れて秘密にしてくれている、という存在がいるのは嬉しいことだと思ってくれていたのかもしれない。  そういう玲望の態度が、瑞樹の中の恋心と期待を余計に後押ししてしまったのだけど。  そんなわけで、恋心と、期待と、そして少しばかりの欲望と。色々と混ざったものを抱えながら歩いていた夕暮れのことだった。がらりとそれが変わってしまったのは。

ともだちにシェアしよう!