21 / 36
思わぬ告白
「梶浦部長」
職員室を出て、廊下を歩いていると二年生の志摩に出くわした。声をかけられる。
そこで既に瑞樹はなにか違和感を覚えた。なんだか張りつめたような空気が伝わってくる。
「まだ帰ってなかったのか? もう下校時間になるぞ」
その空気をやわらげるように言ったのだけど、志摩は「はい」と言ったものの、その場から動かない。数秒の沈黙が落ちる。やがて、志摩がぎゅっと手を握るのが見えた。
「あの、今日はすみませんでした」
謝られた。
が、瑞樹はすぐにわからなかった。どうして謝られるのか。すぐに続けて志摩が言う。
「あの……実習で、基宮先輩にご迷惑をかけてしまって……」
「……ああ」
そこまで言われて瑞樹はやっと思い当たった。クッキーの生地をどうするかという話になった件だろう。
でも別に謝られることはないのだ。志摩は意見を出しただけなのだから。それのどこが悪いというのか。
「なにも悪くないだろ。むしろ幅が広がって良かったと思うし」
しかしあのやりとりを気にして、わざわざ謝りに来たというのか。律儀な子だ。
瑞樹は考えたのだけど、それはどうも平和すぎる思考だったらしい。
志摩がもうひとつ、ぎゅっと拳を握るのが見えて。
「私、部長とお話しできるのが嬉しくて……、それで、つい出過ぎたことを……」
そこまで言われて、やっと瑞樹も思い当たった。
出過ぎたこと、ではない。志摩がどうして謝りにきたかということも、あのときとても嬉しそうだったことも。
頭の中に理由が閃く。それは瑞樹にとって衝撃だった。まさか、こんなことが起ころうとは。
いや、高校生なのだ、起こってもおかしくないことだ。
でも嬉しいとは言い切れなかった。なにしろ瑞樹にはすでに大切なひとがいるのだから。
「あの、梶浦部長は……付き合ってるひととか、いるんですか」
続けられたこと。瑞樹はとっさに反応できなかった。
まさかよそからそういう気持ちを向けられているとは思わなかったし、それが身近な後輩だったというのも衝撃だった。
けれどこれは自分があまりに鈍かったのだ、ということを思い知らされた。玲望に夢中になるばかりで、周りのことをよく見ていなかったといってもいい。
そしてそれは示していた。
自分のその態度のためになにか、誤解をさせてしまったのかもしれないと。
望みがある、くらいは思わせてしまったのかもしれないと。
とっさになにも言えなかった、のだけど。それが余計に悪かったと数秒後に瑞樹は思い知らされる。
がたんと音がした。ここは廊下だ、誰かに聞かれてしまっただろうか。
瑞樹の胸がひやっと冷えたけれど、見えたものに、今度は冷えるどころでは済まなくなった。
「……玲望」
廊下の向こうからやってきた人物。それは玲望だったのだから。
聞かれただろうか、そうだとしたらどこまで。一瞬で恐怖が巡る。
瑞樹のその反応はどう取られただろうか。玲望の顔がはっきり歪むのが見えた。
「……遅かったから」
それでもそう言ってくれた。
瑞樹はなんと返したものかわからなくなった。
ごめん、なのか、それともなにか、言い繕うようなことを言うのか。
でもその前に違う声がした。
「あっ……! も、基宮先輩、今日はすみま……」
志摩が口を開いて言いかけた。勿論、今日の謝罪だろう。
けれど玲望はそれに答えなかった。ただ、一瞬瑞樹を見つめた。
綺麗な翠の目は硬くなっていて、視線は睨みつけるようなもので、でもその奥は確かな悲しみがあった。
「もう、用があるから先帰る」
言い残されたのはそれだけ。ぱっと身をひるがえして行ってしまう。ぱたぱたと上履きが廊下を蹴る音が響いた。
「ま……てよ! 玲望!」
数秒、瑞樹は固まっていた。玲望の眼に捕らわれてしまったように。
しかしすぐにはっとする。
ここで帰してはいけない。厄介なことになる。それは時間が経つほど拗れてしまうものなのだ。
ただ、一瞬ためらった。
志摩のこと。質問にまだ答えていない。
訊かれたのだ、答えなければ無礼だ。けれど、今、独りで駆けていってしまう玲望のことを考えたら。瑞樹はごくっと喉を鳴らした。
「悪い! また今度話す!」
だっと自分も廊下を駆けだした。ずるいことだが、志摩の顔は見なかった。
自分が酷いことをしているのはわかった、けれど。今は玲望を捕まえることが一番重要だった。
思い返せば、今日の実習、玲望はずっとあまり面白くなさそうな様子だった。普段はもう少し人当たりもいいのに。
あの態度の理由。気付かなかったなんて。
自分があまりに酷いやつだったのだと瑞樹はやっと思い知った。歯がみしたい気持ちになる。
ともだちにシェアしよう!