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レモンケーキ

 かしゃかしゃ、とボゥルと泡立て器の触れ合う軽快な音がした。瑞樹が卵の白身と砂糖を混ぜ合わせている音だ。  実習では電動泡立て器を使ったので簡単だったけれど、母親に聞いたところ「うちにはないわねぇ」と言われてしまったので、原始的に泡立て器となってしまった。  今日は家のキッチンを独占して瑞樹は菓子を作っていた。レシピを見ながら黙々と材料を測り、ボゥルに卵を割り入れたりと進めていく。  レシピはプリントだった。本でもタブレット端末でもない。それは、数日前。玲望が部活の皆にくれたものだ。  玲望と喧嘩をしてしまった日、それから数日。玲望とはひとことも話していなかった。  元々クラスが違うので常に一緒というわけではないのだ。廊下ですれ違ったりすることは多いけれど。  それに昼は弁当を食べたりたまに学食へ行ったりと一緒に過ごしているのに、それもない。どうにもすかすかして寂しいことである。  週末に入っても瑞樹は一人だった。玲望は大人しく捕まえられてくれなかったから。  「今日急ぐから」なんて、ちらっとこちらを一瞥しただけで行ってしまったのだ。確かにバイトが早い時間からあるときはさっさと帰ってしまうのだけど、ここまで冷たくされることはない。  玲望はまだ許してくれる気がないのだ。実感して胸が痛んだ。  一応、瑞樹としてはカタをつけた。  志摩を捕まえ、はっきり話した。「悪い、付き合ってるやつがいるんだ」と、それだけだったけれど、それでじゅうぶんだっただろう。  志摩は顔を歪めて泣き出しそうな顔をしたけれど、それでも笑ってくれた。 「そうなんですね。すみませんでした」  自分が彼女を傷つけたことはわかっている。遠回しながら好意を持っていると伝えてくれたのだ。それをはっきり線引きして。傷つかないはずがない。  けれど曖昧なままでいるよりずっとましだとも思うのだった。  それを玲望に言おうかと思ったけれど、そしてそれがひとつのけじめであることもわかっていたけれど、どうもそれでは足りないようだった。実際、玲望は自分に捕まえられてくれないのだから。  それで瑞樹が思い立ったのはこの週末のキッチンだったというわけだ。  金曜日の帰りにスーパーに寄って、小麦粉やバターを買った。準備も整って、土曜日の朝からキッチンにこもる。  実習では瑞樹は直接作っていなかったので、さくさくとは進まなかった。自分で菓子を作ったことは一応あっても、だいぶ昔のことだ。プリントを見つつになる。 「……よし。これで」  材料がボゥルの中で混ざり合い、小麦粉を入れてさっくり混ぜて最後に瑞樹は小さなパックを取り出した。それはドライフルーツ、に似たものだった。  ドライではあるが、皮しか入っていない。細かくカットされている。  これはレモンピール。お菓子作りに使うために売られているものだ。  スーパーに材料を買いに行ったとき、瑞樹はプリントのレシピ通りにオレンジピールを使うつもりだった。けれど製菓コーナーに行ってオレンジピールを見つけたとき、隣にこれが陳列されていたのだ。  レモンピール。レシピを勝手に替えてもいいものかと思ったけれど、オレンジピールとモノとしてはそう変わらないだろう。良いことにして、それを買って帰ってきた。  パックを開けると既にレモンの爽やかな香りがふわっと漂ってきた。ほの甘くて、ほろ苦くて、それ以上にきゅんと酸っぱいレモンの香り。  ボゥルの中にぱらぱらと入れる。生地にさっくり混ぜ込む。色は変わらないけれど、これで完成だ。  型に入れて、オーブンへ。焼き加減はオーブンによって変わってくるというので、瑞樹はちょくちょく覗きに行ってしまった。  やがてふんわり焼き菓子の香りが漂ってくる。レモンの香りも一緒に、だ。  二十分近くが経ち、瑞樹がオーブンから取り出すとふっくらいい加減に焼けていた。竹串を刺してもなにもついてこない。……上出来だ。  ふっと瑞樹の顔に笑みが浮かんだ。出来上ったパウンドケーキからは、レモンの爽やかな香りが漂っていた。

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