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乾杯はほろ苦ミントウォーター

 ぴんぽん。軽快な音があたりに響いた。  普段なら大声で玲望を呼ぶのだけど、今はできない。迷惑になる以上に、今の自分にはそうする資格がないからだ。  ぱたぱたと中から近付いてくる音がして、数秒。ドアスコープ……内側から覗いて訪問者を見られるアレ……から誰なのかを確かめているのだろう。  拒絶されるだろうか。その数秒でひやひやしてしまった。  けれど運良くドアは開いた。顔を見せてくれたのは、勿論玲望。気まずそうな顔をしていた。 「……よう」  瑞樹が挨拶をすると、ちょっと眉を寄せたけれど「ああ」と言ってくれる。  楽しそうではないけれど、あのあとではそうだろう。反応してくれただけでも、出てくれただけでも上出来だ。  そして多分、受け入れてくれるつもり、だろう。思って、瑞樹は切り出した。 「邪魔しても、いい?」  居室の座布団に座って、ちゃぶ台に持ってきた荷物を置く。バッグに入れてきたのは布の包み。弁当を包むのに使う布にはタッパーがくるまれていた。  布をほどいてタッパーを開ける。やってきた玲望がちょっと目を丸くした。 「これ。こないだの詫びに」  タッパーには、綺麗に焼けたパウンドケーキが丸々入っていた。玲望の前にそっと押す。 「こないだは悪かった」  言った。玲望はしばらく黙っていた。 「これ、……お前が作ったの」  手作りなのはわかっただろう。こんなタッパーに入れられているのもそうだし、市販のもののように整ってもいない。 「ああ。味見してないから美味いかわからないけど……玲望のレシピなんだ。美味いと思う」  その言葉で瑞樹が玲望のくれたプリントを見て作ったことを知ったのだろう。玲望の顔が歪んだ。今度のそれは、なんだかどこかが痛むというようなもので。 「ありがと。……」  お礼を言ってくれたものの、玲望は黙った。口が動いて、でも閉じて、また動いて……とする。瑞樹はただそれを待った。 「……俺こそ悪かったよ」  やっと出てきた。おまけにそれは瑞樹と和解してくれるものだった。  ほっとした。瑞樹の心の中に安堵が溢れる。 「片付けてきた」 「そう」  瑞樹はそれだけ言ったし、玲望もそうとしか言わなかった。  でも伝わっただろう。  瑞樹が告白のようなものに返事をしてきたことを。  ちゃんと『相手がいる』と言ったことを。 「お前は、怒らないのかよ」  ふと、玲望が言った。瑞樹がまるで考えていなかったことだ。 「……なんかあるか?」  そのまま訊いてしまう。思い当たる節がない。  玲望が数日、瑞樹を避けたことだろうか、と思ったのだけど、どうもそれではなかったようで。 「俺。あのとき態度、悪かっただろ。……つまらないこと、した」  気まずそうに言ったこと。瑞樹はそこでやっと、玲望も自分のことを省みていたことを知った。 「や、それは俺が空気読まなかったせいだから……」 「そんなことないし、それとこれとは別だ」  でも玲望は悪くないのだ。玲望の気持ちを考えずに行動した、自分のせい。瑞樹はそう言ったのだけど。  不意に玲望が動いた。膝を詰めてくる。ためらったようだったけれど、腰をあげて膝で立った。  そしてどうするかと思えば、するっと瑞樹の肩に手が回された。  ふわり、と目の前に金髪が揺れる。一緒に柑橘のほの甘い香りも。瑞樹に抱きついておいて、玲望はぎゅっと手に力を込めてくる。 「ごめん」  耳元で聞こえたことは、さっきとは違う。もっとはっきりした言葉。  瑞樹は数秒動けずにいたけれど、ふっと顔が緩んでしまった。そろそろと手を持ち上げて玲望の体に回す。 「俺こそ」  それですべて済んでしまった。  久しぶりに感じた玲望の体の感触、あたたかな体温、シャンプーの柑橘の香りも、その中に感じるほのかな汗の香りも。すべてが心地いい。 「丸ごと持ってくるなんて、お裾分けみたいだな」  カチャカチャと皿とフォークが触れ合う軽快な音がする。  瑞樹は棚から出した皿をちゃぶ台に置いて並べて、食べる準備を進めていったのだがそこで玲望がちょっとおかしそうな声で言った。なにか飲み物を準備してくれている台所から。  自覚はあったので瑞樹は「うるせ」と言うしかない。  本当は綺麗にラッピングしようかと思ったのだが、丸ごとのパウンドケーキが入るようなラッピングを、瑞樹は知らなかったのだ。  包む段階になって困って、結局家のタッパーなんて、色気のないものになってしまった。一応、贈り物なのだからもっと綺麗に渡したかったのだが。 「でも、……いい匂い」  玲望は瓶のようなものとグラスを一緒に持って、やってきた。その表情はとても穏やかで。玲望の心も落ち着いてくれたことを表していた。 「そうだろ、絶対美味いって」 「さっきと言ってることが違うけど」  おまけに瑞樹が言ったことに、くすっと笑ってくれる。そうしてから包丁でパウンドケーキを切り分けていった。  断面にはレモンピールが見える。切ったことで香りが強くなって、玲望も気付いたようだった。 「これ、レモンピール?」  すぐ気付くのは流石、料理上手である。 「ああ。あ、オレンジピールと勝手に替えちまったけど、それで失敗したりしないよな?」 「同じ柑橘系のドライだし変わらねぇよ」  ちょっと不安だった点を言ったのだけど、玲望はしれっと言って、パウンドケーキを取り上げて皿に移していく。 「レモンもいいな。夏らしくて爽やかな匂いだし」  一切れずつ皿に乗せて、端にフォークを置いてケーキの準備は整った。  玲望は飲み物の準備をするのだろう。ちゃぶ台に置いていた、さっき持ってきた瓶に手を伸ばす。口が広くなっていて、ピッチャーと呼べるもののようだ。 「ああ。……あ、でも、バザーで出すのはオレンジのままにするから」  瑞樹が言ったことにはちょっと顔がしかめられた。意味などわかっただろう。眉間にしわを寄せて、「馬鹿だな」と言った。それはまったくいつもの玲望であった。 「これ、なに? 炭酸とか?」  瓶の中身は、瑞樹は初めて見るものだった。透明で水のようだが、上のほうには葉っぱのようなものと、それから黄色いものが浮いている。 「ミントウォーター」  玲望は上に浮いているものたちを一緒に注がないように注意して、そろそろグラスに注いでいく。 「ミント、いっぱい育ったから。それとレモンを入れて冷やすだけ」  ベランダでなにか簡単な野菜を育てている玲望。大概豆苗のリサイクルなどなのだが。それで今はミントが採れると。そういうことらしい。 「へぇー、オシャレだな」  瑞樹が来るのを知って作ったものではないだろうに、どうもこのミントウォーターはまだ手をつけられていなかった様子。  もしかすると、と瑞樹は思った。  自分が来てくれたらいい、と思って作っておいてくれたのではないか。  これを言えば玲望は怒るし、そんなわけないだろ馬鹿、とか言うだろうけれど、間違ってはいない気がした。  自然に笑みが浮かんでしまうけれど、瑞樹はそれだけにしておいた。 「じゃ、仲直りに乾杯!」  代わりにグラスを掲げる。玲望は「大袈裟な」と言ったけれど、自分もグラスを持ち上げて、かちりと瑞樹のグラスと合わせてくれたのだった。  ミントウォーターは、ミントのほろ苦い味と、レモンの酸っぱい味がした。きんと冷えて、汗ばむ体に心地良く染みる。  今は苦みが混ざるけれど、それだって玲望と過ごす時間のひとつ。  美しくて、かわいらしくて、でもちょっと素直でない。  そんな玲望との時間は、どんな季節もきらきら輝く金色で瑞樹の一番近くにある。

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