36 / 42

第35話 side.K

「……ニーニャ様を裏切りたくないんだ」 数え切れないほどの幸福を与えてくれたというのに、悲しませるような真似はできない。例えルーゴを傷つけることになるとしても、これだけは譲れなかった。 家族も夢もなかったあの頃のおれがどれだけ救われたか。誰かの為に強くなりたいと思えたのは、紛れもなくニーニャ様のおかげなのだ。 「そっか……」 「……だから、悪いが――」 「じゃあ母さんに言いに行こう」 「…………は?」 「えーと、確か明後日は予定なかったよな? 晴れればいいけどなぁ」 ルーゴはそう言って立ち上がり机の引き出しを開けると、予定が綴られた手帳を確認した。 おれはその場に(ひざまず)いたまま、思わず彼の顔を凝視してしまう。思いもよらない彼の言葉に、嫌な予感が胸に広がっていく。 「待て、言いに行くって……」 「なんだよ。ナイトも一緒に行くんだからな」 やはり聞き間違いでも、思い違いでもなかった。ルーゴは本気でニーニャ様に伝える気なのだ。 慌てて立ち上がり、彼の腕を掴む。焦りからか、頭で考えるより先に唇が動いていた。 「ルーゴ、おれはニーニャ様を――」 「裏切りたくない、だろ? ……あのさ、一つ言いたいんだけど、おれの母さんはナイトの気持ちを『裏切り』と捉える人なのか?」 「それは……」 「そうじゃないだろ、ナイト」 いつの間にそんな目をするようになったのかと戦くほど、強い眼差しに貫かれた。「母さんの何を見てきたんだ」と言わんばかりの、意志のある瞳だった。 「……でも、許して貰えるとは思えない」 「伝えてみなきゃわからないだろ?」 「…………」 「ナイト、ほら」 そう言っておれが掴んでいた腕を捉えると、両手を絡め繋ぎ合わせてきた。 ぎゅっと握られたその両手から、何かが溢れている気がする。活力や愛情のような目に見えない、でも確かにおれの心を震わせる何かが。 「なに不安になってんのか知らねぇけどさ、おれがいる! おれも一緒に怒られてやるから、行こう!」 「…………」 「お前の心に従うんだよ、ナイト」 その一言だった。たった一言で、目に映るすべてのものが彩度を上げた。まるで深い霧が晴れるかのように、夜明けに差し込む朝陽のように。 従者になってルーゴを護ることで、ニーニャ様に報いたいと思っていた。それがきっと恩返しになるだろうと、邪魔になるおれの気持ちはいつも無理やり閉じ込めていたのだ。 でも、今更思い出した。ニーニャ様の口癖を。 “いい? ナイト。迷った時はね、自分の心に従うことよ。迷っても時間がかかってもいいの、必ずあなたの心に従いなさい” たった一度だけ、あの人に弱音を吐いたことがある。軍学校に入学したばかりの頃、想像以上に厳しい訓練に思わず口から溢れていた本音に、そう答えてくれたのだ。 おれの心に従うのなら……従っていいのなら、もう答えなんて決まっている。 ――他には何もいらない、ルーゴが欲しい。 「……っ、どうなっても、知らないぞ」 「馬鹿だなぁナイト。どうなるかわからないって、そんなのは当たり前なんだよ。人の気持ちなんてどれだけ考えたってわかるはずないんだからさぁ」 「……ふ、ははっ。ほんとお前には――」 「え? なに?」 敵わないな、と言い終える前に、こちらに身を寄せて耳を傾けてくるルーゴ。 近づいたその顔が赤く染まるのを黙って見ていられないくらいには、浮ついていた。 「好きだ、ってこと」 「……! な、なっ……」 信じられないといった様子で目を見開く彼などお構い無しに、両手を引っ張り思い切り抱き締める。 腕の中で動揺を隠し切れない(あるじ)を見て、無意識に綻んでいく口元を抑えることはできなかった。

ともだちにシェアしよう!