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Ash.
またかまたかよ、とベンチに座った男が、唐突に姿の見えない誰かに腹を立て始めた。私は手を止め、彼を見た。
「彼は細君と喧嘩しているんだよ」
先生が言った。私は、細君という言葉に小首を傾げた。一呼吸ほど遅れて、その言葉の意味を思い出す。
たまに、先生は私のボキャブラリーにない単語を使う。単にそれは、私が使用しているボキャブラリーデータと、先生が使用しているボキャブラリーデータが違うために引き起こされるエラーなのだろうが、時に、私はこのエラーを目の当たりにするたびに、圧倒的な年の差を痛感する。
二十といくつかを迎えた私と、六十といくつかを迎えた先生では、あまりにもバージョンが違いすぎて、互換性などないに等しい。
「彼の細君は、随分前からあのアンティークラジオだ。元々、彼女の形見だそうでね」
確かに、日系の彼は、アンティークラジオと喧嘩をしていた。
私はそれをしばらく眺め、それから先生に視線を戻した。先生は車椅子のストッパーを外し、ハンドリムに手をかけるところだった。
「先生、行かれるのでしたらマスクを。森は灰がひどいでしょうから」
先生は手を止め、私を振り返った。金縁眼鏡のレンズの奥で、先生は見透かすような目をする。
私は、自分の太いだけが特徴の黒縁眼鏡のフレームに触れ、ハイネックの襟を触ってから、目を伏せた。視線を避けるようにして、背もたれの後ろのポケットを探る。
「マスクは入れていないよ。歳のせいだね、物忘れが酷くて困る」
構文的に間違いがある言い方だった。私はそれを指摘しなかった。
先生は小さくため息をついた。
「悪いが、マスクを取りに行ってくれないかな。書斎の机の上にあるはずだ」
私は返事をする代わりに、背もたれの後ろのポケットからひざ掛けを出し、先生の膝に広げた。
「森に散歩に行くのは数日ぶりですね」
先生はわずかな間を挟んで、そうだねと前を向いた。その表情は冴えなかった。落胆の色ではないのがせめてもの救いだ。私は一瞬の間にかなりためらって、ハンドリムに掛かった先生の両手に触れ、膝に戻した。
先生が何か言う前に、小ずるい私は後ろに回ってグリップを握る。
「いつものルートで頼もうかな」
先生は普段と変わらない穏やかな声で言った。私は返事と共に、車椅子を押した。
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