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Ash.

 森は、宇宙灰で汚れていた。  昨日の灰で、誰も来ていないのだろう。ポピュラーな散歩道だというのに、人の足跡が一つもなかった。踏み荒らされていないまっさらに汚れた林道を、私は先生の車椅子を押しながらゆっくりと歩く。  クヌギの木の根元に、鳥の死骸があった。灰にやられてしまったのだろう。彼あるいは彼女の上にも、宇宙灰が降り積もっていた。 「カラスだね」  先生が言った。私は返事が出来ずに、車椅子の後ろで吐息のようなため息をついた。  先生を乗せて車椅子を押すとき、先生の細くて白いうなじを数秒に一度の間隔で見る。先生の首は片手でつかめそうなほどに細い。何度か触ってみようとして、毎回、思い切れずに諦めた。合理化を果たした今の時代でも、私のような人間の進化は緩慢だ。  これは、たぶん、クリティカルなエラーなのだろう。偽と真の結果をうっかり間逆に書いてしまったような、初歩的なエラー。あるいは、存在しない値を参照してしまったときのエラー。  降り積もった灰に、二本の轍。その間に、私の足跡。確かなタイムスタンプをつけながら、私は空を見ていた。先生の車椅子を押しながら。  空はやはり灰色をしていた。この積年の脆弱なる空からは、いつの頃からか、原因の分からない宇宙の灰が降る。  ちら、と空から灰色が舞った。  また灰が降り始めた。  静かだった。  とても、静かだった。  車輪が地面に食い込む音と、私の足音がワンパターンに。  緩やかな勾配に差し掛かって、旧型の車椅子が軋む。私は、両腕に確かな先生の体重を感じた。  私は、どうして先生は彼女に似ていないのだろうと思っていた。そしてそれから、違うな、と思いなおした。どうして彼女は先生に似なかったのだろう、と思った。  ……遺伝子座には、確かに先生から由来したアレルがあるはずなのに。  たとえば、愚かなたとえば。  彼女の笑い方が、眉尻を下げる笑い方なら良かった。彼女が深い二重まぶたをしていれば良かった。さらにいえば、彼女が金縁の眼鏡をかけていれば良かった。私と彼女のボキャブラリーに、容易い互換性がなければ良かった。  緩やかな勾配を上り詰めたら、視界が開けた。  私は車椅子を止め、ストッパーをかけた。  灰は、ちらちらと疑いようもなく、降り始めていた。  眼下に、湖が広がっていた。  湖面は灰色をしていた。  降り注いだ宇宙灰が水面を埋めて、穏やかにたゆたっている。ぼつぼつと、その中で魚が白い腹を見せて浮かんでいた。  本当にすみません、と私は発作的に詫びていた。  謝罪の言葉は、しばらくその場に留まって、ゆっくりと灰の浮いた湖面に沈んで行った。

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