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1話 兄 前編

 代々領主を務めるマディール家に生まれた僕たち兄弟は、親の愛を受け、街の人々に愛されて、何不自由なく育ってきた。  見目麗しく英明で、昔から神童と呼ばれてきた兄、エミリア・マディール。  特にこれといって特技もなく、親兄弟に護られてのほほんと育った僕、リタ・マディール。  兄に嫉妬心を抱いたことは一度もない。  父と母は賢い兄ばかりを可愛がるということもなく、偏りなく愛情を注いでくれたし、兄は幼かった僕でもわかるくらい輝かしかったからだ。それに、兄は両親に負けないくらい僕を可愛がってくれた。  僕の自慢の兄さん。僕の、永遠の憧れ。  兄と同じ色であるはずの僕の髪は、どうしてか兄のような気品を醸し出してくれない。それを不思議に思って、『どうしてぼくのかみのけは、にいさんみたいにきれいじゃないの?』と尋ねたことがある。  兄は小さかった僕に目線をあわせて、優しく頭を撫でてくれた。  『リタの髪は綺麗だよ。僕よりも、ずぅっとね』  そう言ってきらきらと光を反射する銀髪を揺らし、微笑んでくれた。すべてを魅了するうつくしさで。  僕は、そんな優しい兄さんが大好きだった。  僕が近所の幼馴染に淡い恋心を抱いたときも、兄は微笑みながら応援してくれた。  なにも言っていないのに知られていたことが恥ずかしくて、でも、とても心強くて。あの時僕は顔を真っ赤にして『頑張る!』と言った覚えがある。声が裏返ってしまって、尚更恥ずかしくなったんだっけ。  弱気になると励ましてくれて、相談にも乗ってくれた。僕が告白すると決意した日は、珍しく緊張した表情を浮かべて送り出してくれたものだった。  『大丈夫。きっと、大丈夫だよ。リタの想いは、きっと伝わるから』  少しだけ早口になって何度も僕の手を握る兄に、僕は勇気と、ちょっとだけ癒しをもらった。  だって、あんな兄の姿は本当に珍しくて。これから一世一代の告白をする僕と同じくらいドキドキしていたのが、目に見えてわかってしまって。  少しだけ緊張が解れた僕は、兄の助言を受けて買った薄紅色の花を手に、幼馴染に告白した。彼女は昔から変わらないお下げ髪を揺らして、嬉しそうに花を受けとってくれたんだ。頬を、花と同じ色に染めて。  僕たちはすぐに兄へと報告に走ったよ。  兄はとても喜んで、祝福してくれた。心の底からあふれ出て止まないといった感じの笑顔は、やっぱり綺麗だった。  僕だけじゃなく、彼女も見惚れてしまったのがわかる。でも、こればっかりは仕方ない。兄はあまりに完璧だったから。  それから数日後のことだ。  僕は明日に控えた初デートに心を躍らせて、あれやこれやと案を練っていた。クミルさんのお店でちょっとしたお菓子を買って、街はずれの花畑には絶対に行こう。  彼女はお弁当を作ってきてくれると言っていた。とても、楽しみだった。  僕はすごくワクワクして、ドキドキして、二日前から決めていたデートの時に着る服を意味もなく点検したりして、まさに浮かれていたんだ。  彼女はどんな格好で来るのかな? きっと、可愛らしいに違いない。  緩みっぱなしのだらしない頬に手をあてて、ベッドに寝転がる。  明日は絶対に寝坊をしたくない。もし寝こけてしまっても兄が起こしてくれるだろうけど、こんな大切な日くらい自分の力で起床したかった。  まだ夕陽が空を染めている時間ではあったけれど、早々に眠りに就く。夕飯はどちみち食べられそうにない。あまりに胸が高鳴って、お腹が空いていなかった。  心地よい微睡みに身を任せ、ふわふわと浮かび上がるようにすっきりとした気持ちで目を覚ましてみれば。  そこは、僕の部屋ではなかった。  鼻をつく埃臭さ。仄暗い空間。  がばりと起き上がってみると、決して知らない場所ではないと気付く。  屋敷の地下倉庫だ。子供の頃にかくれんぼをしてここに入り、叱られたことがある。大昔のものが色々あって危ないから、って。  僕自身もこの場所はあまり好きにはなれなかった。ランプを灯しても薄暗くて、お化けが出そうで。 「おはよう。リタ」  耳にすっと馴染む、穏やかな声。  聞き慣れたその声の方に顔を向けてみれば、いつものように優しく微笑む兄の姿があった。 「い、今何時!?」 「今? そうだね……」  どうして地下室で寝ていたのかとか、僕を運んだのは兄さんなのかとか、訊きたいことはいっぱいある。でも、やっぱり一番気になるのは約束の時間に間に合うかどうかだ。なんといっても、今日は大切な初デートの日なのだから。  人差し指を下顎にあてて、兄さんは宙を見遣る。考える素振りをするだけで、どうしてこんなにも絵になるのだろう。 「九時、くらいかな」 「九時!?」  僕は目を剥いて飛びあがった。  噴水の前で九時に待ち合わせの約束をしたのに。それと同じ時間に起きてしまうなんて。これじゃ、なんの為に早寝をしたのかわからない。ねぼすけもいいところだ。 「なんで起こしてくれないのっ!?」  悪いのは僕に違いないのだけど、つい兄にあたってしまう。寝坊癖のある僕をいつもは起こしてくれるのに、どうしてこんな大切な日に限って。 「ふふ。だって、あんまりにもリタの寝顔が可愛かったから」  口元に手をやったまま、兄が笑う。妙な冗談を言っている場合じゃないのに! と思いながら、慌ててベッドから飛び下りて、地下室の出口に走った。  はやく身支度を整えて、彼女のもとへ行かないと。きっと呆れかえっているに違いない。こんな日まで寝坊なの? と。 「どこへ行くんだい?」 「どこって! ミィナのところへだよ! あぁ、どうしよう……! 彼女怒ってるかなぁ……!」  僕のばかばか! ねぼすけ! すかぽんたん!  ぺしっ、と自分の頭を叩く僕の手首を、兄さんのすべらかな手が掴んだ。 「僕以外の人のところへ、行くつもり?」  僕は思わず耳を疑った。兄はなにを言っているのだろう。今日が僕たちの初デートなのは、知っているはずだ。  突如、ぎりりと締めつけられる手首。その痛みを齎しているのが、あの優しい兄さんであるなんて信じられなかった。  驚いて顔を上げた僕の目に映る兄は、整った顔から微笑みを消してしまっている。  精巧な人形のように、無表情だ。 「許さないよ。それは、許されない」  兄の瞳が、僕を射抜く。  雲ひとつない青空みたいだと思っていた薄青色は、氷のように冷たかった。 「い、痛いよ、兄さん。は、放して……? 僕、早く行かなきゃ……」 「僕を置いていくつもりかい? 僕のもとから、いなくなるつもりなのかい?」 「に、兄さん?」  兄の様子がおかしい。  握り潰されてしまうんじゃないかと思うほどに手首が痛み、兄には似つかわしくない乱暴な動きで腰を引き寄せられる。僕の鼻腔をくすぐるほの甘いシトラスの香りは、兄が好んで使っているシャンプーの匂いだ。  兄に似合う、爽やかないい香り。見惚れるならぬ嗅ぎ惚れてしまった、その瞬間だった。 「あうっ」  身体にはしる衝撃。硬い床の感触。  扉から遠ざけるように突き飛ばされたのだと理解できるまで、とても時間がかかってしまった。信じられなかったんだ。  あの、兄さんが。人を突き飛ばすだなんて。 「許さない。どこへも行かせない。リタは、僕のものだ」  床に倒れた僕に、兄は馬乗りになる。  兄の考えがわからない。感情が、わからない。  ただ、怖くて。冷たい瞳で僕を見下ろす兄が、怖くてたまらなくて。あんなに大好きだった兄さんに恐怖する自分も信じられなかった。 「にいさ……、あっ」  顎を強く掴まれて、乱暴に左を向かされる。次は、右に。皮膚に指と爪が食い込み、打ちっ放しのざらついた床に頭が擦れて痛かった。  本当に、この人は兄なのだろうか。こんな酷いことをするのは、本当に──?  僕の視界を掠めるのは、間違いなく兄の顔だった。僕が知る中で一番綺麗な人。間違いようがない。だんだんと近付いてくるそれは、やがてふっと表情を緩めたのだった。 「僕の、リタ……。こんなに近くで君の顔を見れるなんて、僕は幸せ者だね」  びっくりするほど、恍惚に。  兄の髪が、僕の顔にかかる。薄青の瞳で、僕の視界はいっぱいになってしまいそうだ。  睫毛……。ああ、なんて長い、睫毛なんだろう。白銀が、きらきら煌めいて。  兄の氷が溶けて、熱っぽく僕の視線を絡め取っていく。あまりのうつくしさに、僕の時間も恐怖心も、一瞬時を止めてしまった。 「リタ……」  熱い吐息を唇に感じる。そう思った瞬間に、兄の煌めく睫毛がゆっくりと下を向いた。  そして、ふにゅりとした柔らかな感触が、僕の、唇に……。  僕は目を見開いて、覆いかぶさっていた兄を思いっきり突き飛ばしてしまった。  初めての、口付けだったのに。  彼女に捧げるはずだったファーストキスを、事もあろうに実兄に奪われてしまうなんて。恐怖を通り越して、怒りが湧いてくる。  いくら大好きな兄さんでもこれはちょっと許せない。悪ふざけが過ぎると思う。 「な、なんなの! さっきから! なにを考えてるのッ、兄さんッ!」  声を荒げて身体を起こす僕の視線の先で、兄は突き飛ばされた胸に手をあてて、呆然としている様子だった。信じられないといわんばかりの顔をしているけれど、その台詞を言いたいのはこっちだ。 「僕を、拒絶するのかい……? リタが、僕を……?」  良心がずきりと痛んだけれど、最初に突き飛ばしてきたのは兄の方だと思い直すことにして眦を吊り上げる。  僕は、怒っているんだよ。兄さん。 「みと、めない。そんなこと、あってはならないッ!」  兄が放った鋭い怒声。  兄に怒鳴られたことなんて一度もなかった僕は、一瞬で萎縮してしまった。僕の中の怒り火も、吹き消されてしまったかのよう。  兄が、僕に飛びかかってくる。  言い争いすらしたことがなかった僕ら兄弟が、取っ組み合いの喧嘩なんてしたことがあるわけもなく。僕は受け身の取り方もわからなくて、再び床に頭をぶつけてしまうことになるのだった。  床に縫い止められた手をがむしゃらに暴れさせても、体重をかけているのか、兄の手は外れてくれない。足も同様だ。  そして、またも近づいてくる兄の綺麗な顔。兄がキスをしようとしているのは明白だった。  たとえ冗談でも悪ふざけでも、この世で一番美人なのが兄さんであったとしても、僕はこれ以上唇を奪われたくない。大きく顔を背けて、口付けを拒否する。  これでもう大丈夫だ。兄がこちら側へ顔を向けてくるなら、向こうへ向けばいい。  安易にそう考えていた僕の手が、不意に解放された。当然、僕はもう一度兄の身体を突き飛ばそうとして……。 (え……?)  首に絡みつくあたたかな体温に、固まってしまう。 「あっ……! が、ぐぅ……っ!?」  信じられなかった。  兄が、あの兄が、僕の首を締めている。  これは冗談なんかじゃない。兄の顔は真剣そのものだった。兄の腕が小刻みに震えているのは、それだけ全力を絞っているということなのだろう。  苦しいと言葉にすることもできない。息が、できない。  頭の中でぶぅんと変な音がして、自分の苦しむ声が反響して聞こえ出したとき、兄の鼻と僕の鼻がぶつかった。触れた唇はすぐに離れ、かと思えば湿った音を立ててもう一度重ねられて。  息を吸うことも吐くこともできずにぱくぱくとする僕へ、兄は生暖かくてぬるりとしたものを入れてくるのだった。  兄の顔が、赤くなってくる。いや違う。僕の視界が赤くなっているんだ。  苦しい。苦しい。顔の、上のほうに、なにかがたまって。ふくらんでいくみたいだ。  あたまが、ぼぅっとして、めのまえが、あかい。くる、しい。  おとが、ひびいて。きこえる。おとが。くるしい、おと。  ゆびさきの、かんかくが。なくなっていく。 「ひぃぃぅっ」  突然胸に酸素が流れ込んできて、僕は裏返った呼吸音を立てた。視界に散っていた赤い霧が晴れ、指の感覚が一瞬でもどってくる。げほげほと大きく咳き込むと、涙が滲んだ。  赤の次は涙で見えづらい視界に映る兄は。 「あぁ……、リタ……」  自分の身体を抱きしめて、ぞくぞくと身を震わせている。 「苦しかったのかい? ああ、僕が、リタに、苦しみを与えてしまったんだね?」  色付いた唇を半開きにして宙を見つめる兄は、言葉とは裏腹にとても嬉しそうな表情をしていた。  危険な、色っぽさを漂わせて。

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