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4話 両親 前編

「リタ。食事にしましょ」 「おやあ、リタ。また寝坊かい? まったく、お前は本当に朝が弱いなあ」  母さんが優しく笑い、父さんが新聞を広げながら大口を開けて笑う。 「ぼ、僕だってたまには寝坊しない時もあるよ!」 「はははっ。寝坊する日の方をたまににしないと、だめだなぁ」 「うっ……」  まったく、父さんの言う通りだ。  言葉に詰まってバツの悪い顔をする僕を、両親は食後のコーヒー片手に手招きしている。  通い家政婦のマリベルさんがトーストやサラダを出してくれて、あたたかなスープとフルーツなんかも並べてくれて。それを僕はお礼を言ってから食べ始めるんだ。  これが、マディール家の朝。いつもの光景。 「家族みんなで、朝の談笑をしながら食事がしたいものだなあ」 「……明日は、ちゃんと起きます……」 「楽しみにしているよ」  僕の父はとても穏やかで、それでいて朗らかさもある人だ。僕ら兄弟と同じ銀色の髪を毎日きっちりとセットして、格式あるスーツを着こなした姿はとても品がある。黙っていればハンサムダンディなんだけど、たまに朗らか過ぎてしまうときがあって……。要は、陽気な人なんだ。  『私たちの髪はラッキーな色なんだよ。なんといっても、白髪がまったく目立たないからね』  そう笑いながら言われたときは、微妙な気持ちになった。それってつまり、僕たちの髪の色は白髪とそんなに変わらないってことだよね、父さん。  僕と一緒にそれを聞いていた兄は……。ああ、確か口元に手をやって、面白そうにくすくす笑っていたんだっけ。そのときに揺れた髪はやっぱり綺麗で気品があって、きっと兄さんは白髪が生える歳になってもずっと綺麗なんだろうなぁと僕は思ったんだ。たしか。  母さんは控えめで、優しい。そして、父さんが大好きだ。  目が合えば二人して微笑みあって、一緒に歩くときは必ず父にエスコートしてもらっている。そんなときの母はちょっぴり恥ずかしそうだけれど、嬉しそうだった。実の息子から見ても、この二人はラブラブだ。僕も、いつかはこんな夫婦になりたいと密かに思っている。 「リタ? あなた、すこし顔色がよくないわ。眠れなかったの?」  レタスをフォークで刺して口に運んでいると、顔を傾けた母が心配そうに言った。 「うーん。なんだか、とても怖い夢をみていたみたい。それでかな……」 「まぁ……」  立ち上がって僕に歩み寄り、額に手を当ててくれる母。大丈夫だよ、と僕が言っても、母さんは念入りに僕の体調を確かめようとする。ちょっと過保護じゃないかなと思うときはあるけれど、いつも僕たちを気にかけてくれる優しい母さんだ。 「夢だったんだろう? 大丈夫。私たちがいるからもう怖くないさ」 「ふ、二人して! 僕はもう子供じゃないんだから!」 「なにを言うんだい? リタとエミリアがお爺さんになったって、私たちの子供には変わらないよ。なぁ、母さん」 「ええ。父さん」  両親に頭をぐしゃぐしゃに撫でられた僕は、ちょっぴり恥ずかしかった。けれど、内心では安心していたんだ。  すごく、すごく恐ろしい夢をみていた気がする。内容は覚えてないけれど、本当に怖かったんだ。  両親の手のあたたかさが心にしみていって、僕をほっとさせてくれる。もう立派な大人なのに、こんなんじゃだめだとは思うけれど。 「もう、夢は覚めただろう?」 「うん……。父さん。母さん」  柔らかな声で慈しむように言われると、素直に甘えようかなって気持ちになってしまう。でも、やっぱり恥ずかしくて、『僕、もう大人なのにな……』と無意識に声が出てしまっていた。 「いつまでもお寝坊しているようでは、まだまだ子供だけどね」 「うッッ……!!」  ぐうの音も出ません。完敗です。父さん。  誤魔化すように朝食を口へ詰め込み、僕は目を逸らした。椅子へ腰を下ろし直した両親がクスクスと笑っているのが聞こえる。 「食べたら、兄さんに朝の挨拶をしていらっしゃい。起こすべきかずっと迷っていたみたいだったから」  こくこくと頷きながら咀嚼する僕。  喉にトーストを詰まらせかけると、マリベルさんが絶妙なタイミングでコーヒーを差し出してくれた。  いつも通り、ミルクたっぷりのちょっぴりぬるめ。寝坊癖がある僕はゆっくり朝食を摂っている暇がなくて、マリベルさんはいつもこうしてくれる。呷って、ごくごく飲んでも火傷しないように。 「ぷあっ! ごちそうさまでした!」  上唇についたラテの泡を舐め、席を立つ。  『リタはいくつになっても無邪気だなあ』と、あまり褒められた気がしない言葉を聞きながら背を向け、すこしだけ大人びた振る舞いを装って足を前に出した。 「それが坊ちゃんの良いところですよ」 「そうよ、リタ。無理はおやめなさい」  どうやら僕には品性が足りないらしい。正直、落ち込んだ。  セレック街、ひいては一帯に広がる領地を治めるマディール家は貴族だ。けれど、父も母もそれを鼻にかけることはない。  一級貴族並みの気品と慈悲をもつと名高い一族の生まれであるのに、どうして僕はこうなのか。いや、理由はわかっている。勉強と落ち着きが足りないせいだ。  こんな僕を、両親も兄もそのままでいいと言ってくれる。リタはリタのいいところがたくさんあるのだから、と。  眼差しに込められた親の愛を感じて、僕の心はこそばゆくなる。  僕は、幸せ者だ。  優しい家族と優しい街の人に囲まれて生きている。見守られて、護られて。  僕もいつかは街の役に立つことがしたいと思っている。次期領主になる兄さんの手助けができるくらい頼もしくなるのが、僕の目標なんだ。それがきっと、最大の親孝行になると信じてる。  まだ誰にも言ったことがない将来の誓いを胸に秘め、僕はこぶしの後ろで扉を叩いた。  こんこんこんと小気味良い音がしたあとに、『どうぞ』と兄の声が聞こえる。  兄の自室に足を踏み入れて姿を探し、僕は思わず息をのんだ。  バルコニーからこちらを見ている兄の髪を風が揺らしている。朝の柔らかな太陽に煌めくそれを耳にかける兄は、優しい笑みを湛えていて。白っぽい司祭さまのような服も相俟って、まるで天使みたいだと思った。  光に彩られ、優雅に裾を揺らして歩み寄る兄は、あまりに綺麗だったんだ。 「よく眠れたかい?」 「う、うん」  ふと、兄の手が僕の口元にのびてきて口端を撫でていった。ラテの泡がまだついていたらしい。気恥ずかしさを感じながらありがとうと呟くと、兄さんはゆるく頭を振った。  それからそっと僕の手に触れて、顔を覗き込むように目線をあわせてくる。 「それじゃあ、そろそろ起きようか」  僕は瞠目する。  意味がわからない。いや、わかりたくない。わかっちゃ、いけない。  優しい兄さんのうつくしい顔が近づいてきて、僕は咄嗟に両腕で顔を覆った。そしてぎゅっと目を瞑って視界を暗くすると──。 「うっ……! む、う、ぅ……!?」  急に、呼吸が苦しくなった。  いやに重たいまぶたを必死に持ち上げててみれば、煌めく白銀がそこにある。 「うーっ! んううっ!」  口いっぱいに、生温い液体が満たされている。味は、なかった。  気管に入ってしまって、噎せそうだ。僕の唇は兄にとらえられていて、口移しで更に流し込まれる水とおぼしき液体が僕を苦しめる。 「ぶあっ!! っは、っはぁッ……!」  唇を擦るように横を向いて口内の水を吐くと、僕の肩と胸が濡れた。僕の諸肌は剥き出しで、なにも纏っていない。 「おはよう。僕の可愛い眠り姫……」 「ひっ……!」  ねっとりと艶めく声が耳元でしたと思えば、ぬるぬるする舌で耳を舐められてしまった。  僕は兄の膝に横向きに座らされていたようだ。兄の胸が僕の左腕とぴったりくっついている、そんな体勢。くちゅ、と濡れた音を立てて耳の孔まで舐められると、身体が勝手に震えてくる。  夢が、覚めてしまった。恐ろしい夢から覚めて、いつもの日常にもどる夢。  悪夢だ。こんなのは、悪夢でしかない。けれど、その悪夢こそが現実なんだと知らしめさせられ、僕は絶望していた。  僕の左足首には足枷が嵌ったままで、そこからいかにも古そうな鎖が下がっている。何度も叩かれたお尻がじわじわと痛むし、後ろもなかも、僕の鼓動にあわせて鈍い痛みを訴えているのだ。 「あ、あぁ……っ」  僕の唇からは嘆きと恐怖の声が漏れて、目から涙がこぼれ落ちる。  また、始まってしまう。怖い時間が、始まってしまう。

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