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5話 両親 後編

 もう、閉じ込められたあの日から何日経ったのかもわからない。時計もないし、ここは地下だから窓もなくて、時間を知ることもできないのだ。  終わりのみえない監禁生活。  兄に犯され、苦痛を齎される日々。 「お腹が空いたろう?」  兄の声は夢のなかと同じように優しいのに、僕の震えはひどくなる一方だった。  兄はこの甘くて優しい声を紡ぎながら、ひどいことばかりする。僕の大好きな優しい兄さんはどこへいってしまったのだろう。 「むぐうッ!?」 「青リンゴだよ。好きだったろう? まだまだあるから、たんとお上がり」  兄が僕の口へとつっこんだ青リンゴは大きすぎた。噛みつかなくてはとても食べられない大きさだと、兄もわかっているはずなのに。ぐいぐいと手のひらで押し込んでくるものだから、苦しくて仕方がない。喉にまでリンゴが到達して、嘔吐いてしまった。 「おごッ、おえっ」  僕の苦しむ様子を、兄は綺麗な薄青の目をいっぱいに開けて見ている。瞳孔までも大きく開いて、口端を吊り上げて。薄く開いた唇から、時折掠れた吐息が漏れていた。  苦しい。感情だけじゃない生理的な涙も出てきて、視界が歪む。  シャツを纏った兄さんの腕を捕まえ、懸命に押した。僕はあまり筋力がある方ではないけれど、それは兄も同じだ。兄の右腕は僕の背中と腰を支えているから、両腕を使える僕に分がある。  渾身の力を振りしぼってその手をどかすことができたとき、見目麗しい兄さんが見た目通りの細腕でよかったと心から思った。 「う、げほっ……! はぁ、はぁ……」  口を大きく開けてリンゴを取り去り、荒く呼吸をする。  思い出したように疲労感がどっと押し寄せてきて、立ち上がってもいないのに目眩がした。心も身体も、へとへとだ。 「食欲がないのかい? せめて水分は摂らないといけないよ」  兄は僕から顔を背けたかと思うと、水差しを片手に持った。どうやら、腰かけたベッドの上にトレーが置いてあるらしい。 「さあ、口を開けて」  身を硬くしながらほんのすこしだけ口を開けると唇めがけてぽとりと水滴が垂らされ、それを舐めて口へと収めれば、嬉しそうに兄が微笑む。兄の手が、腰から肩へ向けてスライドしてくるのがわかった。僕の首が兄の腕、その関節で支えられて、固定するように曲げられる。  嫌な予感がする、と感じる間もなかった。  傾けられた水差しから僕の顔に降り注ぐ、冷たい水。鼻と口めがけてじゃばじゃばとかけられ、息ができない。 「わ、ぶ……っ! がぼッ、にいっ、ごぼっ!?」  兄さん、と呼ぼうとすれば、水を流し込まれて言葉を飲み込まさせられる。鼻から水が入って、つんともちりともつかない痛みがはしった。 「お飲み。お飲みよ」 「やめ……! に、うぶっ、にいさっ、やめてッ! あぶっ、がぼっ!」  顔も、胸も、お腹も冷たい。  兄の服も水を吸ってべちゃべちゃになっているに違いないのに、兄は不快そうな顔ひとつしなかった。かわりに、ぞくぞくするような妖艶な表情を浮かべて、ひどく色っぽい声を出すんだ。 「ああ……。溺れそうな顔も可愛いよ……。リタ……」  僕が兄の袖を掴むとほぼ同時に、水差しの中身は空になったみたいだった。役目を終えた水差しを投げ捨て、兄が唇を押しつけてくる。 「ん、むぅ……っ。ぷぁっ、げほっ……!」 「リタの唇……、すっかり冷たくなってしまって……。僕が、あたためてあげる……」  憐れむような声を出して、僕の唇にはぁっと息を吹きかける兄さん。  兄の言動は理解不能だ。僕に暴力紛いのことをしているのは他ならぬ自分なのに、まるで誰かにいじめられた弟を慰めるようなことばかり言う。そんな時は決まって恍惚とした顔をしているから、不気味で仕方がなかった。 「愛しい……。あぁー、愛しいリタ。僕のリタ」  小鳥のように啄んで、蛇のようにぬろぬろと舌を這わせてくる兄。 「僕も、すこしお腹が空いてきたよ……」  語尾が掠れたその言葉に不穏さを感じて、僕は大慌てで膝を降りた。足に力が入らなくて床に転げ落ちてしまったけれど、構わない。肩を多少擦り剥くくらいの痛みなんて、兄から受ける苦痛に比べれば可愛いものだ。  震える足を叱咤して、立ち上がって、扉へ向けて走る。ヂャリッと音を立てた鎖に逃走を阻止されても、めげなかった。 「父さん! 母さん!」  これ以上ないってくらいの大声を張りあげる。 「誰かっ! マリベルさん!」  僕が閉じ込められて何日も経っているのは間違いないんだ。その間、両親が探していないわけがない。きっと、僕の声は誰かに届くはず。  心臓はけたたましく、バクバクどくどく早鐘を打っていた。兄が飛びかかってくるのではと、おそるおそる視界に捉えてみる。しかし、僕の予想に反して、兄は穏やかな表情でベッドに座っていた。  優雅な所作でリンゴを手にして、口に運んでいる。 「父さん!! 父さんッ!!」  これ幸いとばかりに僕は叫んだ。声が裏返ったって、構うもんか。  しゃく、とリンゴを噛む音がする。 「母さん! 母さん母さーんッ!!」  まだ、返事は聞こえてこない。  代わりのように、しゃく、しゃくと音が鳴る。 「僕ここだよ! 地下倉庫ッ! マリベルさん、聞こえる!? 僕はここにいるんだ!!」  しゃく。 「父さあああん!! 母さぁああん!!」  喉がちぎれそうになりながらも、僕は必死に叫び続けた。手はぎゅっと握りしめて。時には身体をくの字に折って。  全身全霊を込めて、両親を呼んだ。  どれだけの時間をそうしていただろう。  水に濡れた素裸を晒したまま、 僕が息を切らせる頃になっても、返事はなかった。扉も、開かなかった。  リンゴを食べる音を鳴らさなくなった兄は、顎に指を置いて僕をじっと見つめている。 「おや。終わったのかい?」  すこしばかり意外そうにそう言うと、兄は軽く目を瞬き、ほんのすこしだけきまりの悪そうな表情を形作った。とても、珍しい表情だ。兄さんはいつも凛としているか、優しく微笑んでいるかがほとんどだったから、こんな悪戯を告白するような顔なんてなかなかお目にかかれない。 「ここで大声を出しても、誰にも聞こえないのではないかな」 「…………え?」 「この地下倉庫がもともとシェルターだったことは……、ああ、やっぱり知らなかったんだね? 戦争などが起こった時には、街の人々をここに避難させるんだよ。爆風も熱線も一切通さない造りだから、音もそうそう漏れはしない」  僕はその場でへなへなと崩れおちてしまった。  意味がないとわかっていたから、兄は冷静だったのか。わかっていて、必死に叫ぶ僕を眺めていたのか。 「ごめん。すこし意地悪をしてしまったね。でも、リタがあまりに情熱的な声を出すものだから。言うに言えなかったんだ。あまりに……、素敵だったからね……」  父さん。母さん。  たすけて。  喉から絞り出したはずのその声は音にならなくて、口先の空気を微かに揺らしただけだった。 「ところで、僕のことはいつ呼んでくれるのかな? ずっと、待っていたのだけど」  頭を傾けて、すっと立ち上がる兄さん。  踏まれた水溜りが、ぱしゃんと跳ねた。 「ああ。どうせなら名前で呼んでくれないかい? リタに兄と呼ばれるのもとても耽美だけれど、たまには、ね?」  力が抜けた僕の腕を、兄がとる。助け起こすように抱きしめられて密着した胴は、濡れて冷たい。 「……父さんと、母さんはどこ……?」  大声を張り続けた僕の喉はぱさついて、ひどく細い声しか紡げなかった。  右側に傾いていた頭を左へと傾げなおして、兄はやたらと澄んだ瞳で僕を見つめるのだった。 「それは、必要なものかい?」  羽が舞いそうなくらい声は柔らかいのに、僕を抱く腕には力が入りすぎている。僕を、潰そうとしているみたいだ。 「う……。に、さん……」  兄の爪が僕の背中に食い込んで、ぎぎぎと痛みを残していく。お腹が潰されて、息がしづらい。 「要らないだろう? 君には、僕がいるのだからね」 「はぁ……っ」  僕の喉から、押しやられた息が出ていく。  両腕できつく抱きしめられると、兄の鼓動まで感じられた。兄の煌めく髪が僕の顔をくすぐって、ほの甘いシトラスの香りがする──。 「僕の名前を、呼んでおくれ」  冷たくて、すこしばかり苦しい抱擁。上を向いて喘ぐ僕の瞳を覗き込んで、兄はもう一度言った。 「君に、呼ばれたいんだ……。リタ……」  薄青の瞳が、さざめいたような気がした。  兄の顔がすっと逸れたかと思うと、耳に湿った吐息を感じ、こり、と歯を立てられた。それは軽い甘噛み程度だったけれど、いつ力を入れて噛みちぎられるかと僕は気が気じゃない。  怖くて、従わなきゃって思って、凝り固まる声を必死で僕は搾り出したんだ。 「エミ、リア……にいさ、ん……!」 「リタ……」  ふっと戒めがほどけて、ひんやりとした手が僕の両頬を包み込んだ。  ああ、兄さん。  兄さんの瞳が、青空を映した湖みたいに見える。風に撫でられて、揺れ──。  そこまでを思ったあたりで、僕は目を閉じた。兄が僕のまぶたにキスをしたからだ。おでこにも、鼻にも、頬にも。音を立てない押し当てただけの柔らかなキスを。  そのあとに、唇に感じるふんわりとした体温。徐々にあわせを深くするそれは湿り気を帯びて、僕の口内にまで熱を残そうとするんだ。  ゆっくりと、舌べろ同士をあわせられる。いつもの抉っていじめるようなものとはすこし違う、表面の粘膜だけを擦り合わせるような舌遣いだった。  ちぷ、と小さな小さな音を鳴らして唇が離れていくと、頬からも兄の手の感触が離れていく。耳と首に髪が掠める感じがあって、背中に布の擦れと兄の手を感じる。また、抱きしめられたみたいだ。 「愛してるよ。リタ。僕の、全て……」  身をこわばらせて目を閉じたままでいる僕の肩甲骨のあたりを、水滴が転がっていくような感覚がした。服がびしょ濡れの兄から滴ったのだろうか。  兄は暫くのあいだずっとそうしていて、僕も微動だにしなかった。兄が奇行にはしりませんようにと、願いを込めて、息を殺して。  痛みのないハグなら、いつまででも続いていたっていい。  このまま、ずっとこのままで……。痛くて苦しい時間がこなければいい。  僕がそんな願いを抱きながら、細く息を吐いたときだった。 「……冷たい」  やたらと平坦な声で、兄は今更になってそんなことを呟く。そして、ふらふらとした足取りで出入り口へ向かい、扉に手をかけたかと思うと、おもむろに顔だけをこちらへ向けた。 「……ちゃんと、食べなくてはだめだよ。リタ。残さず、全部」  ベッドの上に、あるからね。と続け、兄は地下室から去っていった。  こわばりがなかなか解けない手足を動かして、水がこぼれたベッドへ向かう。床も、べちゃべちゃだ。  銀のトレーに載った白磁の皿には、切ったリンゴが几帳面そうに並んでいた。ひとつ残らず、かじった跡があるリンゴが。歯並びすらもうつくしい兄さんの歯形が残るそれを、僕は震える手で掴み取る。 「うっ……。ひっ、ぃく……」  添えられていたフォークは、使わなかった。  かしゅ、と噛みついた青リンゴは、僕の大好物。香り高くて、甘いけれどしっかりと酸味があって……。  兄の、キスの味がした。

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