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8話 友達 前編

 実のところ、僕はいじめられていたことがある。  相手は同い年のジェイク。彼は小さい頃から身体がすこしだけ大きくて、いつも学年のリーダー的存在だった。兄さんのようなカリスマとは違い、どちらかというとガキ大将のような感じだ。  彼は、なにかにつけて僕に文句を言い、わざとぶつかってきて転ばせたりしてくる。僕のことが気に入らないというのが、ジェイクの口癖みたいなものだった。 「お前、本ッ当目障り! ちんちくりんのくせに、偉そうにしやがって!」  あの日も、僕はいちゃもんをつけられた。  僕からしてみれば、偉そうなのはジェイクの方だ。いつも子分を引き連れて、『どうだ、俺って強いんだぞ』みたいな顔をして。  いつもはやられっぱなしの僕だけど、たまにはぎゃふんと言わせてやりたい。好き放題言われ続けて、僕の我慢は限界だったんだ。 「うるっさいな! 猿山の大将が偉っそうに! バカジェイク! 僕だって君のことなんか大っ嫌いなんだよッ!」 「なんだとっ!? リタのくせに生意気だ!」 「なんだよ! ジェイクのくせに!」  僕とジェイクは唾を飛ばしあって、大声で互いを詰った。ジェイクの取り巻きたちは、時々僕に野次を飛ばしてくるけれど、彼らが率先していじめてくることはまずない。彼らはジェイクに逆らえないだけなんだ。  体格のいい彼に突き飛ばされると、僕の身体はいとも簡単に地面に転がってしまう。僕の家の血筋は、みんな線が細い人ばかりだった。決して、僕が特別ひ弱なわけじゃない。  すくなくとも、僕はそう信じている。 「やっちまえ!」  取り巻きたちにそう命令して、ジェイクはこぶしを振り上げた。 「ひ……!」  これには僕も驚き、思わず顔を庇って目をきつく瞑る。  すぐそばに迫ってくるいくつもの足音。確かに、これまでも彼らからのいじりやいじめは何度か受けてきた。けれど、こんなにもはっきりとした暴力は初めてで、僕はその瞬間に怯えながら小さくなっていることしかできない。 「なにをしているんだ! 君たちッ!!」  思えば、兄さんの荒げた声を聞いたのはこれが初めてだった。 「やばい! エミリアさまだっ」 「お、おれしーらないっ! おれ関係ないからな!」 「あっ!? お前らっ!!」  一目散に逃げ出す取り巻きたち。兄は真っ直ぐに僕のところへ走ってきて、ジェイクから守るように立ち塞がってくれた。 「どうしてこんなことをするんだい!?」 「う、うるさい! お、お前には関係ないだろ!」  身体の大きいジェイクといえど、この時はまだ、年上であるエミリア兄さんの方が背丈があった。  兄さんは昔から誰にでも優しくて、この時も怖い顔をしていたわけではなかったのだけど、子供にとっては年上というだけで強い人間に見えたものだ。 「意気地なしのリタ! アニキに庇われてないとなんにもできないくせに!」 「そ、そっちこそ! 一人じゃどうせなんにもできないんだろ!」 「リタ!」  兄に守られて気が大きくなった僕が言い返すと、ジェイクは目尻を吊り上げ、糸切り歯を剥き出しにした。そうしておもむろに屈み込んだかと思うと、こぶしを作っていた手を振りかぶったんだ。  ジェイクの手から放たれたものがこちらへ向かって飛び、即座に兄さんが庇ってくれた。 「お前と一緒にするなッ!!」  僕を抱きしめる兄さんの向こうで、ばたばたと足音が鳴る。ジェイクが逃げていく音だ。  『こらーっ』という声も聞こえたから、大方、大人に見つかったんだろう。ざまあないやと思った覚えがある。小さくなっていく黒い頭の後ろ姿に向かって、舌を出してやった。 「怪我は、ないかい?」  そんな僕の肩に手を置いて、兄さんはゆるく顔を左右に振っていた。もうよしなさいということだろう。  僕は唇を尖らせようとしたけれど、兄の頬が目に入った瞬間に、愕然としてしまった。 「に、兄さん……! か、顔に傷が!」  なめらかな肌についた薄い横線。僅かに血が滲むそれは、兄の白い肌にはあまりに痛々しく、鮮烈に見えたものだった。 「掠めてしまったかな……。大丈夫。そんなに痛みもないし、大したことはないよ」  大したことは十分にある。よりにもよって、顔だなんて。兄さんの綺麗な顔に傷なんて、とんでもないことだ。 「それより、リタは? 大丈夫かい? 痛いところは、ないかい?」 「だ、大丈夫! 僕は、なんともない……」  心配そうな眼差しを向けてくる兄に何度も大丈夫だと言って、僕は屋敷に向けて走り出した。もちろん、兄の手を引いて。  はやく、マリベルさんに手当てをしてもらわないと。そう思って。 「ああもう! ジェイクのやつ! 僕だけじゃなく兄さんにまで怪我させるなんて! なんなんだろ、いつもいつも、いーっつも! もう!」  なんだか、あとになってものすごく腹が立ってきてしまったんだ。  僕を狙ったのだろうけど、結果的に兄さんを傷付けたことには変わらない。そりゃあ、煽った僕も悪かったかもしれないけど、ものを投げつけるなんてあんまりだ。  ぷんぷんと肩をいからせる僕は、失言をしてしまったことに気がつかなかった。 「……いつも?」  兄が立ち止まり、手を引いていた僕も止まる。 「いつも、怪我を? もしかして、先週の擦り傷は彼に負わされたものだったのかい? 転んだというのは、嘘?」 「い、いやー、そのー……」 「リタ。僕の方を見て」  兄が僕の前にまわり込み、すこし屈んで目線をあわせてくる。  僕は空を見つめたり、地面の小石を眺めたりして、一生懸命に言い訳を考えた。一応、嘘ではない。ジェイクに突き飛ばされ、転んで擦り剥いた傷だった。 「……嘘、なんだね」  違うよと言おうとしていた僕は、ひどく細い声音に、そっと兄の顔を窺い見た。  兄はとてもとても悲しそうな顔をして、僕の頬に手を当てながら、『ごめん』と謝罪の言葉を紡いだんだ。 「気付いてあげられなかった。ごめん、ごめんよ。辛かったろう」 「やっ、大丈夫だよ! 本当に、大丈夫なんだ!」  僕は恥ずかしくて、真っ赤になった顔を隠すように歩き出した。  いじめられてるなんて、家族には知られたくなかった。そんな弱っちい男だと思われるのは、嫌だったんだ。  兄は暫くのあいだ、黙って僕の後ろを歩いていた。横に並ばなかったのは、きっと僕が顔を見られたくない気持ちでいるのをわかっていたからだと思う。  屋敷に帰り、玄関を開けようとすると、鍵が閉まっていた。マリベルさんは買い出しに出てしまっているようだ。幸か不幸か、この日は両親が帰って来ない日だったんだ。たしか、地方での会合があるとかで。  僕らは持たされている鍵で開錠し、すぐに兄の手当てに取りかかった。とは言っても、兄は鏡を見てから傷口を洗っただけで、消毒ひとつしなかったけれど。 「救急箱、あったよ」 「これくらいなら、そのままにしておいた方が治りが早いよ。多分、ね。心配はいらないよ」  兄さんの手が僕を椅子へと導き、座らせる。隣の椅子に腰かけて、兄は静かな声を唇に乗せ始めた。 「いつからだい?」 「…………」  僕はすぐにはなにも言わなかった。  兄さんは急かすでも、口を割らせようとするでもなく、ただ静かに僕の言葉を待っていた。  静寂が僕たち兄弟を包む。ちらりと横目で窺うと、兄さんは前を向いていて、僕を見てはいなかった。きっと、焦らせないためにわざと視線を外してくれていたんだと思う。 「……そんなに、前じゃないよ」 「うん」 「…………」 「…………」 「……半年、くらい前からかな」 「……そうだったんだね」  兄の声は、優しかった。それに、とても穏やかにも聞こえた。 「叩かれたのかい?」 「ううん。ちょっと、押されたりしただけ。殴られそうになったのは、今日が初めて」 「そう……。きっかけに、心当たりはある?」  兄さんの言葉が柔らかくて、横顔が優しくて、僕の心がほどけていく。  素直な気持ちが意地の皮を薄く裂いて、ちょっとだけ鼻の奥がつんとしてしまった。 「わかん、ない。なんでだろ……。僕のこと、嫌いだからじゃないっ?」  語尾が揺れてしまいそうになって、僕は虚勢を張り直した。すると、兄さんは前を向いたままですっと立ち上がって、僕の頭を柔らかに撫でていく。 「喉が渇いてしまったね。なにか持ってくるから、すこしだけ待っててくれるかな」  そう言い残して、兄さんはキッチンへと消えていった。  チチチ、と金を石で小刻みに擦り叩くような音がして、また静かになる空間。テーブルに置いた腕に顔を預けて目を閉じれば、ほんの微かな物音が心地よく耳に感じられた。  コトン。シュッ。とぽぽ。  それから、あとに響く穏やかな足音。  湯気のあがるカップを手に現れた兄は、ひとつを僕の目の前に置いてくれた。  身体を起こし、カップを両手で包み込む。ふーふーと息を吹きかけて白い水面を揺らすと、宙を渦巻き、揺蕩っていた湯気が面白いようにかたちを変えた。口をつけて、ほんのすこしだけ啜ってみる。思ったよりも熱くなくて、二口目は入れる量を増やした。  舌に乗るミルクのまろやかさ。ほんわりと甘いのは、多分ハチミツだったんじゃないかと思う。  兄さんの作ってくれたホットミルクは美味しくて、こくんと飲み込む度に胸の奥底があったまっていくようだった。それが僕の心を揺らして、横隔膜を揺らして、鼻をずびずび鳴らせるんだ。 「くやしい……、くやじいぃー……! なんだよ、なんだよっ……! ジェイクのやづぅぅ……! ばぁぁかぁぁー!!」  鼻水が垂れて、涙がこぼれて、やりきれなさがあふれてくる。  なんで僕がこんなみじめな目にあわされなきゃいけないんだ、って、悔しくて仕方がなかった。 「う、うぅぅっ……! くっそぉ、くっそー……っ。うっ、えぐ……」  カップを置いて、ぐじぐじと目元を擦る僕。兄さんはそんな僕の背中を、すこし強めにさすってくれた。 「いっつも、子分を引き連れてさ……!」 「うん……」 「卑怯だよ。ずるいよ。こっちは一人なのに!」 「そうだね」 「馬鹿。馬鹿っ。馬鹿ジェイク! いじめっこの、あんぽんたん! 嫌いだ、あんなやつ、大っ嫌いだ……!」  子供ながらにない頭をひねって、思いつく限りの罵りを口にしながら泣きじゃくる僕は、今思えばとても滑稽だっただろうと思う。けれど、兄さんは馬鹿にするでもなく、僕が泣き止むまでずーっと、背中をさすってくれていた。  甲高い嗚咽が落ち着いてきて、呼吸器から鳴るすんすんという音もだいぶ小さくなった頃、兄は『飲むかい?』と自分のカップを差し出してきた。小さく頷き、ぬるくなったほんのりと甘いミルクを一気飲みする。 「……ありがとう、兄さん。おいしかった……」 「そうかい? それはよかった」  晴れ渡る青空のような瞳が、僕を気遣わしげに見つめていた。 「ジェイクのやつ、農民の子のくせに……。僕の方が、ずっと偉いのに。こんなのおかしいよ。変だよ」  そうでしょ? と隣に顔を向けると、兄は長い睫毛を瞬いて、微かに頭を傾けた。 「リタ。それは、本心で言っているのかい?」 「え? だって、そうでしょ? 僕んちは領主で、貴族で、この街で一番偉いんだよね?」  当然のように言うと、エミリア兄さんは椅子ごと僕に向き直り、手を握って、真剣な表情を形作ったんだ。

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